三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
釈宗演

2018/07/23

シカゴでの出会い

明治25年、洪川の遷化(せんげ)(逝去)により、宗演は円覚寺派第2代管長に就任。まもなく、アメリカから第1回万国宗教会議への協力依頼が届く。この会議は、白人文明を謳歌した空前の規模の博覧会といわれるシカゴ万博の関連行事として開催されるものであっ た。日本仏教はこの会議に懐疑的で、キリスト教優位の主張に利用される可能性が高いと見て、日本仏教としても各宗派としても、代表を送ることを否決、参加は個人資格に限られた。それでも参加した僧侶は4名で、うち2名が慶應義塾出身であることは興味深い。 宗演の他、もう1人は土宜法龍(どきほうりゅう)、後に高野山真言宗の管長になる人である。

宗演は会議の場で、「仏教の要旨並びに因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」という2つの演説を行った。中でも2つ目の演説は、戦争を避けるために宗教が果たすべき役割を問うもので、人類愛の実現のために、我々が中心になろうと呼びかける内容である。 この演説は、セイロンの仏教者として広く知られたダルマパーラが代読し、喝采を浴びたという。日本の仏教者たちは注目され、非合理的なものと見られていた大乗仏教への理解が広まるきっかけともなり、成功といえる結果を残した。

この時宗演は、アメリカの仏教研究者ポール・ケーラスに出会う。2人は意気投合し、世界の宗教の未来を語り合い、往復書簡を残している。その書簡中には「真理の前には基督教、回教、仏教など云ふが如き差別は毫も之れなく、まして人種、風俗、言語の異同は言ふまでもなきことに候」とある。宗演は、さらに脱皮を遂げ、今やキリスト教さえも包羅する新しい宗教の創造さえ視野に入れていたように見受けられる。

こういった英語でのコミュニケーションを手伝ったのが、宗演の下に出入りしていた鈴木貞太郎、後に宗演が「大拙」の居士号を贈る、鈴木大拙その人であった。

海を渡るZEN

宗演はその後、大拙をケーラスの元に送り、英語による仏教研究の発信に従事させる。さらに明治35年7月、アメリカ人ラッセル夫人一行が円覚寺に来訪、参禅を希望するとこれを受け入れ、6カ月にわたる修行を許した。そしてラッセル夫人は帰国に際して宗演の渡米を求めた。日露戦争従軍などで遅延したものの、宗演は管長職を下りて、約束を果たす。明治38年、渡米した宗演はサンフランシスコのラッセル別邸で9カ月を過ごし、その間に米国人を集めて坐禅を指導し、経典講義を行うと共に、自らの英語学習を日課とした。この宗演の流れをくむ弟子の千崎如幻(せんざきにょげん)、釈宗活とその弟子の佐々木指月(しげつ)・ルース夫人は、これ以降アメリカでの禅の普及に大きく貢献していくこととなる。この渡米の際、セオドア・ルーズベルト大統領と会見した宗演は、「仏教が欧米化し、耶蘇教が日本否東洋化せば世界の平和是に於てか始めて成らん」と述べ、大統領と意気投合している(『欧米雲水記』)。

宗演は東アジア各地にも足跡を残しているし、明治40年のある書簡には「年中七分は巡教、三分は在寺の割」で「青天井主義にて布教」する決意を記しているように、国内をくまなく巡った。政財界人を集めた碧眼会と称する法話会も頻繁に開催され、各界の有力者は足繁く北鎌倉に宗演を訪ねた。

こういう宗演に対しては、「漫然とハイカラであるとか、新しがり屋だとか」という評が相当あったと、孫弟子に当たる朝比奈宗源は後に書いている(『明治の禅匠』)。成金を相手にし、あるいは各地を巡る様子が一般受けのパフォーマンスと映ったのであろう。しかし、宗演は意に介さなかった。そして確かに禅はZENとなった。さらに在家向けの居士禅も、確実に広まったのである。

参禅時のラッセル夫人(左)、中央が釈宗演 (東慶寺蔵、部分)

福澤との共鳴

宗演が福澤に対して贈った還暦祝や追悼の漢詩が現存している。福澤門下の数は多けれど、これだけ律儀に礼を尽くしている人はいない。福澤については従来、家の宗派である浄土真宗との関係ばかりが重視されてきたが、福澤の言説には、実は禅と共鳴するものが多いように思われる。曰く、「本来無一物とは云ひながら無物の辺には自から勢力の大なるを見るべし」「自由在不自由中」「戯去戯来自有真」「無我他彼此」という案配で、『福翁百話』の境地もそうであろう。筆者は現在三田で開催中の特別展「釈宗演と近代日本─若き禅僧、世界を駆ける」(~8月6日)の企画を担当する過程で、宗演と福澤に多くの共通点があると感じた。それについては改めて詳しく書いてみたいと思っているが、何よりも従来の固定観念を脱し、「俗世」にまみれて「衆生済度」を志し、その目的のためには、右の如く左の如く、融通無碍なるようで、揺るがない背骨が通っている。それは宗演が福澤に影響されたというよりも、それぞれに独立に到達し響き合った境地だったように思われる。

残念ながら宗演は、大正8年11月1日、満59歳の若さで遷化した。宗演の墓は、管長引退後に住職を務めた北鎌倉東慶寺にある。また東慶寺本堂前にはラッセル夫人の遺灰を収めた供養塔が建てられている。

※所属・職名等は当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事