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【福澤諭吉をめぐる人々】
釈宗演

2018/07/23

洋装の釈宗演(東慶寺蔵)
  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    慶應義塾福澤研究センター准教授

日本の「禅」が「ZEN」として西洋社会に浸透して久しく、かのスティーブ・ジョブズも実践者だったといわれる。ではそもそも禅が日本から世界へと伝播した原点はいつかといえば、1893年に開かれたシカゴ万博をある禅僧が訪れたこと、とされるのが一般的である。この禅僧こそ、慶應義塾出身の釈宗演(しゃくそうえん)である。

師の反対を振り切り三田へ

釈宗演は安政6年12月18日(1860年1月10日)、現在の福井県高浜町に生まれた。明治4(1871)年、10歳の時、遠縁に当たる臨済宗の僧、越渓守謙の元に出家。最終的に鎌倉円覚寺の今北洪川(いまきたこうせん)の元に至り、明治16年に異例の早さで修行を終えた。翌年、円覚寺塔頭仏日庵の住職に収まり、あとは僧侶として世を送る道がついた。ところが、宗演の人生はここからが面白くなる。

明治18年、彼は洪川の反対を押し切り、突如円覚寺を出て慶應義塾に入学する。この時26歳。円覚寺の僧堂を出るときに残した、「言語ニテハ迚(とて)モ尽(つく)シ兼ネ候」と書き出す、長文の置き手紙が現存する。

師の今北洪川は元来儒者で、大坂で私塾を構えながら出家の思い留めがたく、遂に妻と離縁して出家したという人であった。その著『禅海一瀾』は、儒と禅の一致を説く著作である。その人が、西洋の学問を学びたいという宗演を許すはずがない。洪川は宗演への書簡に、「洋学は宗旨上に用ふべき処なし」と断言、「福澤諭吉の如き、西洋人を夷狄禽視(いてききんし)する最中に洋行して、専ら外国の学派を見尽して、吾国文明の先導者となりし為め、今慶應義塾の盛大を致せし也。……雷同して、洋学に志すは是(これ)後天の、遅八刻と謂ふべし」(『宗演禅師と其周辺』)と書いた。それを振り切っての慶應義塾入学であった。入学記録の記載は明治18年9月。保証人は鳥尾小弥太代理川合清丸となっている。

「三田の活地獄」

明治政府の宗教政策により、当時の仏教の退廃は著しかった。廃仏毀釈があり、寺領も失い、宗派の分立や管長職の設置など、大改革を迫られた時期である。入学時の保証人として名がある川合や鳥尾は、神道・儒教・仏教の融合を説いた人物であった。また、同じく宗演の支援者となる山岡鉄舟も神儒仏の融合としての武士道を主張した人である。従って、義塾に入学した宗演の眼差しもまた、すでに一宗派の枠を超え、日本の宗教の近代、とりわけキリスト教への対抗が意図されていたと考えられる。慶應義塾入学後に僧堂に書き送った手紙に「(義塾教師の)キッチンと云ひロイドと云ひ、皆これ外教宣教師…学術を売るの旁ら、宗旨を冥々裡に播布する」と憤慨し、塾生としての日々を「三田の活地獄(いきじごく)」と書いたものがある(『宗演禅師書翰集』)。

この頃の福澤との交流については、何も資料が残されていない。しかし伝えられるところでは宗演を一目見た福澤は「此の小僧他日必ず一山の貫首たらん」といったとか、宗演が法衣のまま豪放な振る舞いをすることを咎める塾生に「汝輩の知る所でない」といったとか、やや伝説めいた逸話が伝えられている。宗演はこの塾生としての日々を「聖胎長養(しょうたいちょうよう)」(悟りを開いた後の修行)と位置づけ、晩学者のコースである「別科」に2年間学び、今度はセイロン(現在のスリランカ)に留学する。この経緯も詳しくは伝わっていないが、山岡鉄舟が「和尚の目は鋭すぎる、天竺で馬鹿になってこい」と描き与えたという案山子(かかし)の絵が残されている。

セイロン留学

明治20年3月、宗演はセイロンに出発した。この時宗演が付けていた日記には、日本語、漢文、しばらくして英語が加わり、セイロンのシンハラ文字も混在している。留学中は終始、貧窮の中で、小乗(上座部)仏教と植民地セイロンの実情を観察している。その過程で彼は、インドで衰えて久しい元々の仏教が息づいていると思っていたセイロンの仏教が、実は、18世紀にシャムとビルマから高僧を迎えて再興されていたことを知る。そこで今度はシャムへの転学を試みた。ところが、着いてみると門前払いを食らい挫折。一時滞在の宿さえ得られず、宗演は不本意にも留学を終えねばならなかった。帰国は明治22年10月であった。

シャムへと向かう航海中の壮絶な体験が有名である。船中に入れない「デッキ・パッセンジャー」としての旅路、彼は蚊の大群に襲われる。払えども到底払えないその群れの中で彼は蚊の腹を満たすだけでも本望ではないかという境地にいたって深い禅定に入った。どれだけ時が経ったか、ふと気がつくと、眼前には赤いグミの実がパラパラと落ちていた。よく見るとそれは宗演の血を吸い尽くして息絶えた蚊の死体であったという。

この留学で彼の視野はさらに脱皮を遂げ、大乗・小乗を超えて仏教国が世界的に交流・連帯して発展していく理想を描く。彼の著作には、その先にセイロン独立まで掲げられている。

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