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【福澤諭吉をめぐる人々】
望月小太郎

2018/03/01

演説と対外情報発信

大正9年1月25日『東京朝日新聞』朝刊より

世間からは「望小太(もちこた)」、「気障男(きざおとこ) 」などと呼ばれ、「ハイカラ」で鼻持ちならない議員と冷評される一方、演説が巧みなことで知られ、「手を挙げ、案を拍ち、左右顧眄(こべん) して、一擒一縦(いっきんいっしょう) の態度に至つては、上下両院700の名士中、恐らく氏の右に出づる者はない」(『読売』明治40年10月10日付)と定評があった。『東京朝日新聞』には度々望月の演説姿を風刺するイラストが掲載された。演説会では、ほっそりとした顔に金縁メガネをかけ、派手な身振りで直立端麗に演壇に立ち、やや反り身の姿勢で朗々と述べ、メモを読むときは左手に持って斜めに上げ、同じ金縁の補足のメガネをガチャンとはめて朗読してみせたという(芳賀武『ハワイ移民の証言』三一書房)。三田演説会でも2度演説し、懸賞演説会の審査委員を務めたこともあった。

望月は、39年、英文通信社を設立し、『日刊英文通信』の発行や翻訳書出版によって、日本の情報を海外に発信するとともに海外の話題書を日本に紹介した。特にホーマー・リー『無知の勇気』を訳した『日米必戦論』(明治44年)は話題となった。議会での鋭い質問の背景には、独自に集めた国内外の情報があった。対外強硬論者と位置づけられているが、正確な国際情勢をふまえた分析で早くから外務省改革を主張し影響力をもった。それは官僚外交から国民外交の時代に入ったことを直視し、国民世論にもとづく外交を推進するためであった。自らも、押しの強さと語学力を生かし、問題が起きるたびに海外で直接要人と交渉し、事態の打開を模索した。留学経験をもつ嘉代子夫人も英語が堪能で、英文通信を病身の夫に代わり執筆することもあったという。家庭の様子が写真つきで雑誌に取り上げられることもあり、世間の注目を集める存在であった。

望月の信念と福澤

英国に留学し法律を学び、帰国後は翻訳に従事しながら政治の世界に入り、演説で名を馳せ、最後まで官界に背を向ける望月の紳士然とした姿は、福澤が将来を嘱望しながら米国で客死した馬場辰猪の姿を彷彿とさせる。福澤は望月のことを「随分才あり」(『書簡集』6)と高く評価していた。29年3月、ロシア出発前に望月が福澤の元を訪れたとき、福澤は「随分共御身御大切に被成度(なされたく) 、夫(それ) のみ念じ入候」(『書簡集』8)と体の弱い望月を気遣った。福澤が馬場を「後進生の亀鑑(=手本)」と褒め讃えた8周年追悼法要は同年11月2日であった。福澤の目に望月は馬場の再来と映ったのではないだろうか。

望月は海外経験が豊富だったが外国かぶれにはならず、明治天皇と日蓮に毎朝祈りを捧げ、政党の党利党略や政府の傍観者的外交を嘆き、信仰心と愛国心を原動力に持論を展開し、その実現のため行動した。その姿は自らが尊敬する福澤の「自己の信ずる所の主義を以て奮闘」する姿と重なる。

故郷を大切に思い、身延山久遠寺下の鶯谷に因んで鶯(おう) 渓(けい) と号して漢詩をつくった(現在、その場所には「鶯渓閣」という案内所がある)。大正4年に49歳にして一人娘義子(のちに歌人)が生まれ、「淋しがりや」の望月はどこへ行くにも娘を連れて行きたがったという(『37人が語るわが心の軽井沢』軽井沢を語る会)。

気管支に持病があった望月は、昭和2(1927)年4月、山梨での補欠選挙応援中に病に倒れた。東京・原宿の自宅に戻って療養する間に、井戸水から発生した腸チフスに罹り、咽喉結核を併発し、5月19日午前3時5分、議員在職中に死去した(61歳)。22日午後2時から青山斎場で告別式が営まれ、一千余名が参列したという。熱心な日蓮宗信者であった望月の墓は身延山竹之坊境内にあり、墓の左には昭和14年に建立された記念碑がある。題字は尾崎行雄、撰文は若槻礼次郎、揮毫は望月日謙による。風雨にさらされ現在は解読困難であるが、『鶯渓遺稿』に全文が掲載されている。末尾には、「天下の公人以て亀鑑と為すべき」とある。


※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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