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【福澤諭吉をめぐる人々】
望月小太郎

2018/03/01

望月小太郎(『鶯渓遺稿』より)
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

極貧から身を立て、その語学力と弁舌で名をなした慶應義塾出身者に望月小太郎(もちづきこたろう)という山梨出身の政治家がいる。今では知る人も少なくなったが、明治40年代から大正時代にかけて舌鋒鋭い外交通として知られた名物議員である。伊藤博文や山県有朋、井上馨といった元老に重宝される逸材でありながら官界には背を向け、議会政治と民間外交に自らの信念をかけた望月の生涯と福澤諭吉の関係に迫りたい。

生い立ちと福澤との出会い

望月小太郎は、慶應元年11月15日(1866年1月1日)、甲斐国巨摩郡身延村(現山梨県南巨摩郡身延町)に望月善右衛門、もんの三男として生まれた。身延学校を卒業した後、明治13年、父の死により困窮したが、地元名士たちの後押しがあり、山梨学校(後の山梨師範学校)に入る。友人の本を借りて筆写し、夜は廊下の灯りの下で勉強に励み、貸費生となることができ、16年中学師範科を卒業した。山梨の瑞穂学校教員として1年余り勤務した後、上京して19年5月、南葛飾郡の細田小学校に六等訓導兼校長(月給八円)として就任する。翌3月学校統合により辞職し、21年6月1日、慶應義塾に入学した。

困窮していた望月は学費を調達するため、22年9月に永島今四郎と共に『グラッドストン公伝』を翻訳し出版した。これを知った福澤諭吉は「金が無きこそ寧ろ志が立つのである、大に努力せよ」と言って、望月に月八円の手当を出し、『時事新報』に外国紙の記事を翻訳させた。あるとき、福澤は「ハウ、ツー、ドリンク、ゼ、ウォーター」を「水を飲むの注意」と訳した望月に、「なぜ『水を飲むの心得』と訳さないか」、「注意では多少文字を解するものでなくては分からぬけれど、心得とすれば殆んど何人にも通ずるではないか」と指摘したという(『福翁訓話』実業之世界社、明治42年)。平易な文章を心がける福澤ならではのアドバイスである。また、望月にとって福澤の真髄は「人に倚(よ) らず、世に頼らず、独立独行眼中唯自己の信ずる所の主義を以て奮闘したる其勇猛心」にあるとみていた(同前)。

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