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【福澤諭吉をめぐる人々】
カメハメハ4世とエマ王妃

2017/12/12

福澤の描くハワイ

福澤は、帰国後に中津藩に差し出した報告書と思われる『万延元年アメリカハワイ見聞報告書』の中で、ハワイの習俗を簡潔に伝えている。それによると、男女とも裸足で、男子は筒袖の服、婦人は福澤の描いた絵によればムームーを着用し、主食は「水芋の如き物」(タロイモ)を熱して潰した物(ポイ)である。福澤は、島内の店はヨーロッパ、アメリカ、中国人が経営していて、ハワイアンの店は1カ所もないこと、ハワイアンの子どもも多くが英語の本をもって学校に通っていることも観察し、記録に留めている。

福澤は、3度目の海外渡航を終えた直後の慶應3(1867)年に出版した『西洋旅案内』でも、「太平海飛脚船の立寄場所」の章の中で、「サンドヰチ」(ジェームズ・クックがハワイ諸島を「発見」した時に、上官の名をとってつけた名称)を登場させている。福澤は、 「島に王あり。其家の名をタメハマハといふ。住居はホノルヽといへる港にあり。矢張国王の格式にて、すでに西洋の国々とも条約を取結べり」と王国を紹介した。しかし、その記述は、「島人の風俗は甚だ見苦し」と、『福翁自伝』同様、手厳しい。サンフランシスコで 初めて西洋文明に直に触れた興奮が冷めやらぬままハワイを観察した福澤の記述は、割り引いて読むべきであろう。

咸臨丸とともにアメリカに向かったポーハタン号は、嵐による破損箇所の修理と石炭の積み込みのために往路でホノルルに入港した。ポーハタン号に乗船した使節団にとっては、これが初めての異国との遭遇であり、驚きの連続であった。4世夫妻に謁見した副使の村垣淡路守は、日記でエマのことを「生るあみだ仏かとうたがうばかり」と書いている。さらに村垣は、4世が肩にかけた肩章とエマの礼装を見て、「御亭主は たすきがけなり おくさんは 大はだぬぎて 珍客に逢ふ」と歌を詠んだ。

福澤も招かれた、「日本で言えば中ぐらいの西洋造り」の王宮は、ハレ・アリイと呼ばれるセレモニー用の建物で、今日、現存するイオラニ宮殿はその20年ほど後に建てられた王宮である。ちなみに、イオラニの名は、カメハメハ4世の名からつけられたものである。福澤が見た鳥の羽は、ハワイでは王族の象徴であった。「オーオー」と呼ばれる現在では絶滅したハワイ固有種の鳥の羽をまとめてポールに縛り付けた物をカヒリという。カヒリは王族がそれぞれ独自の物を持ち、カヒリを作るには、貴重な材料と膨大な時間と技術が必要なため、王族と同様に敬意をもって取り扱われていた。

木村摂津守は、カメハメハ4世を「王名カメガメヤ齢三十四五許、土人の種なれども自然儀容見るべきあり」と評している。実際には、4世はこの時26歳、エマは24歳であった。福澤は、「皇弟」を見たと書いているが、4世には弟はなく、兄であるロットを指しているのかもしれない。

クイーン・エマと王国のその後

カメハメハ4世が最も心を痛めていたのは、ハワイアンの健康であった。西洋人は、近代的な物質とともに伝染病もハワイにもたらしていた。免疫のないハワイアンは軽い病気でも重症となり、クックが30万人と推定したハワイアンの人口は1855年には73,000人にまで激減していた。4世とエマは、病院をつくることを決心したが、議会では予算が得られないため、2人は個人的に資金を集め、ようやく病院開設にこぎ着けた。病院の定礎式は福澤たちが謁見した直後の7月15日に行われた。

1862年8月、カメハメハ王家とハワイアンに悲劇が訪れた。アルバート王子が病に倒れ、わずか4歳にして亡くなったのである。王子の死後、4世夫妻はイギリス国教会に一層強い関心を寄せ、ハワイにはまだないイギリス国教会の教会を建てるために、英国ヴィクトリア女王に司教の派遣を依頼し、教会建設のための敷地を寄付した。しかし、深い落胆のために生きる希望を失ったカメハメハ4世は、教会の完成を見ることなく、1863年11月30日に世を去った。

残されたエマは、王の死後も社会活動に力を注ぎ、病院と教会建設のための資金集めに奔走した。教会は、11月20日がセント・アンドリュース・デイに当たることから、セント・アンドリュース大聖堂と名づけられ、その美しいステンドグラスの一部には、カメハメハ4世夫妻と、その下にアルバート王子が描かれている。カメハメハ王家は、その後、子どもが生まれることなく、4世の兄ロット(カメハメハ5世)の代で途絶え、6代目以降の国王は、選挙で選ぶことになった。第7代ハワイ王の選挙は、カメハメハ家とは異なるアリイ出身でアメリカ寄りの政策を掲げるカラカウア(福澤の謁見時にも同席していた)と、アメリカがやがて武力をもってハワイを併合するのではないかと危機感を抱くエマとの間で争われた。ハワイアンには圧倒的な支持を受けるエマであったが、アメリカ系白人が実権を握る議会の投票ではカラカウアの圧勝に終わった。

福澤は、晩年『福翁自伝』で「30年前のハワイもいまも変わったことはなかろう」と記したが、自伝の脱稿からわずか3カ月後、1898年8月12日、エマの危惧した通り、イオラニ宮殿にはアメリカ合衆国の国旗が掲げられ、ハワイ王国は消滅してしまった。

カメハメハ4世とエマが建設に力を注いだ病院は、エマにちなんで、クイーンズ・メディカル・センターとなり、今日もハワイ随一の総合病院として、ハワイ在住の人々の健康を支えている。

クイーンズ・メディカル・センター

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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