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【福澤諭吉をめぐる人々】
カメハメハ4世とエマ王妃

2017/12/12

St. アンドリュース大聖堂のステンドグラス(4世夫妻)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

サンフランシスコを出航した咸臨丸は、往路とはうってかわって、穏やかな海原を順調に航海し、1860年5月23日(万延元年4月4日)、ハワイ王国のホノルル港に到着した。石炭の積み込みを終え、日本に向けた出発を翌日に控えた5月25日、軍艦奉行の木村摂津守は勧めを受けて、ハワイ国の王宮に国王を訪問することになった。その日、艦長の勝麟太郎ら主な士官はオアフ島に上陸し不在であったため、木村は艦内にいた通弁方(通訳)の中浜万次郎(ジョン・マン)、従者の福澤諭吉ら4人を伴って王宮へと赴いた。こうして、従者にすぎなかった福澤が一国の国王に拝謁する機会を得た。

ハワイの地元紙ポリネシアンは、5月26日付の記事で、この日本人使節の謁見を採り上げ、同席した福澤をHookosoya Ukeokei と記した。福澤は、『福翁自伝』で、その場面を次のように回想している。

「王様にも会(お)うたが、これも国王陛下と言えばたいそうなようだけれども、そこへ行ってみれば驚くほどのことはない。夫婦づれで出て来て、国王はただ羅紗(らしゃ)の服を着ているというくらいなこと、家も日本でいえば中ぐらいの西洋造り、宝物を見せるというから何かと思ったら鳥の羽でこしらえた敷物を持ってきて、これが一番のお宝物だという。あれが皇弟か、その皇弟がざるをさげて買い物に行くようなわけで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった」

この時、福澤の前に現れた国王夫妻が、カメハメハ4世とエマ王妃である。

アレクサンダー・リホリホ

ハワイ王国は、咸臨丸寄港の半世紀前、1810年にハワイ島のアリイ(貴族)であったカメハメハ(1世)がハワイ諸島を統一して誕生した。

カメハメハ4世は、1834年2月9日、カメハメハの孫として生まれ、アレクサンダー・リホリホ・イオラニと名づけられた。アレクサンダー・リホリホは、兄のロットとともに、叔父のカメハメハ3世のハナイ(養子)となり、将来の王として英語とハワイ語の両方の教育を受けて育った。

15歳の時、アレクサンダー・リホリホは、ロットとともに3世の使節であるジャド博士に同行して、アメリカ合衆国とヨーロッパを公式訪問した。彼の日記によれば、カナダのハリファックスではそりに乗り、パリではフェンシングを体験するなど、楽しい出来事もあったが、彼の即位後の政治に大きな影響を与える経験もした。1つは、イギリス女王ヴィクトリアの夫アルバートと親交を深めたことであり、もう1つは、帰路のワシントンD.C.で起きた事件である。列車に乗っていたアレクサンダー・リホリホは車掌から、この車両にはふさわしくないので、別の車両に移るように言われた。車掌の人種差別的な発言と態度は、「私はアメリカ人に失望した」と、彼の脳裏に深く焼き付けられた。

利発で外交的な性格からハワイアンに人気のあったアレクサンダー・リホリホは、ロットの弟ながら早くからカメハメハ3世の後継者と期待されていた。1854年12月、カメハメハ3世の死を受けて、彼は即位し、カメハメハ4世となった。当時のハワイ王国は、ポリネシア系の先住民(ハワイアン)社会が弱体化する一方で、アメリカ人宣教師たちが政治や社会の中で実権を握るようになっていた。4世の最初の公式な行動は、3世が始めていたアメリカとの併合の交渉を止めることであった。4世は、ハワイがアメリカの一部になることを望まなかった。

1856年6月19日、カメハメハ4世は、子どもの頃、同じ学校に通っていたエマ・ナエア・カレレオナラニ・ルークとカワイアハオ教会で結婚式を挙げる。祖父は、イギリス人船乗りからカメハメハの軍事顧問となったジョン・ヤング、祖母の父はカメハメハの弟という家柄で、イギリス人医師の養父のもとで育ったエマは、4世同様に親英的であった。やがて2人に男子が誕生し、王子は、英国のアルバートから名をもらいアルバート・エドワードと名づけられた。ハワイアンは、カメハメハ王家に生まれた待望の子を「カ・ハク・オ・ハワイ」(プリンス・オブ・ハワイ)と呼んだ。カメハメハ4世一家は、ハワイアンにとって未来の明るい希望でもあった。

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