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【福澤諭吉をめぐる人々】
アリス・エリナ・ホア

2017/10/10

ホアが見た福澤家

ホアは、福澤にとって最も身近な環境で接した最初の西洋人女性である。果たして、ホアが見た福澤の家庭は、どのようなものであったであろうか。

ホアの書簡に、福澤家の2階は2つの部屋があり、大きいほうの部屋を教室にして、小さい部屋を自分の寝室としたと残っている。この教室でホアは少女たちに英語、裁縫、編み物、賛美歌を教えた。

そして、福澤の娘や姪と過ごした時間のことも、書簡に記している。

「今朝私は、生徒たちとミスタ・フクザワの小さなお嬢さんと一緒に、彼のカントリィ・ハウスまで楽しく歩いて行きました。私たちは木の下に座って昼食をとり、その後に賛美歌をいくつか歌いました。皆、とても楽しい時間を持ったと思います。少女たちは皆、とてもお行儀が良いのです。」

福澤著の『福澤諭吉子女之伝』には、子供達の成長記録が記されているが、その中に、ホアの名前は記されていない。ショーに英書を学んでいることが記されているので、別にホアから学ぶということはなかったのであろう。ちなみに、ここには長女のお里の項には、丁度同時期にピアノを買って、ショー夫人について少しずつ稽古をしていることも書かれている。そのような中で、ホアが、福澤の子供達に直接教えるということはなかったにしても、私的な交流があり、賛美歌、つまり西洋の歌を木の下で、楽しく歌っていた情景は興味深いものがある。

さらに、別の書簡には、ホアは写真を同封していた。その写真にはホアが最初に教えた生徒が2名写っている。その中の1人が福澤の姪の澄であり、「私の左側にいる人は、残念なことなのですが、結婚しています。彼女は、ミスタ・フクザワの姪です。私は、彼女が私と一緒に住んでくれたらなあと願ったことがあります。」とある。澄は、中上川彦次郎の妹で、その前年に朝吹英二と結婚していた。

一方、ホアが残した記録に対して、福澤自身やその周辺が残したホアに関する記録は、石河幹明著の『福澤諭吉伝』に次のように見ることができるのみである。

「ショーの紹介でミス・ホール(ホアのこと)といふ婦人の宣教師がしばらく先生家の2階に寄宿して家庭教師をしていたことがある。非常に熱心な宗教家で……ホールが先生の家に居たとき毎朝祈祷する折、何卒下に居る悪魔共の罪を免させ給えと、頻りに悪魔悪魔と云う言葉を口にする。悪魔とは誰のことだと聞いて見ると、それは私はじめ福澤の家族のことであるというので、これには甚だ驚いたが、併し其熱心には感心したと先生が語られたことがある。」

女子教育の先駆者

ホアが実際に福澤の家に住んだ期間は、約1年半であった。明治10年5月に、ショーが三田近くの地に新築した家に転居した。ホアも、SPGからの援助でショーの新居の敷地に小さな教室兼用住宅を建てることができて、8月に引っ越したのである。しかし福澤の子供達は週に3度、ショーの家に通い、里は一時期、ショーの家に預けられたこともあったので、ホアとの交流も続いたことであろう。

福澤は、晩年に女性論を語った『福澤諭吉浮世談』で「一利一害、一短一長」西洋と日本を比較し、「是れが日本の彼に及ばない所であるということが明白に分かったならば、一寸の猶予もなくすぐに換えなくてはならぬじゃないか」と語ったことがある。また、西洋の女性の活溌で自立した姿に言及することもあった。

儒教主義の悪弊からの女性の解放を切実に願っていた福澤にとって、この1年半は、ホアという熱心で使命感を抱いた西洋の女性の姿を見る絶好の機会であった。そしてまた、「慶應義塾敷地内で行われた女子教育の先駆」(白井堯子氏)でもあった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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