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【福澤諭吉をめぐる人々】
アリス・エリナ・ホア

2017/10/10

ホア(中央)と福澤の姪・澄(右)
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

アリス・エリナ・ホア(Hoar, Alice Eleanor 1845~1922)は、長い期間、東京のS P G(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts)系教会における唯一人の女性宣教師であったと言われている。英国で生まれ、明治8(1875)年に来日した際に、三田にある福澤諭吉の自宅2階に住まわせてもらった。そして、福澤の援助と理解でこの2階に開いた少女のための塾で、ホアは一緒に住み込んだ5人を含め十人余の少女にキリスト教教育を行っていた。

福澤と宣教師たち

福澤といえば、稲荷の神体を見たり、中の石を取り替えたりという『福翁自伝』に書かれた少年時代の行動からも、一般的には、無神論者と思われている。更には、明治初期には、キリスト教排撃論者と見做されることもあった。福澤は明治初期には、キリスト教の拡がりが日本の独立を危うくすると考え、キリスト教を警戒して、宣教師排撃の文章を書いたこともあったからである。しかし、その後実際には、福澤は少なくとも19名のキリスト教各宗派の宣教師たちと関わりを持ち、特に英国国教会の宣教師たちとは最晩年に至るまで密接な交流をしていたということが、福澤研究センター客員所員でもある白井堯子(たかこ)氏の研究により判明している。この福澤と関わりのあった19名の宣教師の中の1人がホアである。

白井堯子氏は、1990年から、英国オックスフォード大学の図書館で英国国教会の宣教団体SPGの海外宣教文書を調査され、その中に、福澤諭吉と接点のあった宣教師達が送り続けた報告の書簡が多数あることを発見された。丹念な調査の結果は、『福沢諭吉と宣教師たち』(未來社)にまとめられており、今回のホアに関する記述は、主にこの本に拠っている。

ホアの経歴を伝える文書は残っていないため、育った環境、学歴などは不明だが、イギリスで生まれ、女性宣教団体Ladies’Association が日本へ最初に派遣した宣教師がホアであった。

当時の日本は、子供の頃から性別による区別が様々な場面で見られており、西洋とは大きく異なっていた。そのため、男性宣教師が女性に直接キリスト教を宣教することは困難であったと考えられるこの時代、ホアの存在意義は相当に大きかったであろう。

ホアは、少女のための塾や大人の女性を対象にしたバイブルクラスを東京で開いただけでなく、小笠原諸島の子供達を引き取って育てたり、貧しい女性達のためにスープを提供したり、農村に住む女性と一緒に聖書を読んだり、と多くの日本人女性と関わりキリスト教を伝えてきたという記録も残っている。また、日本で最も古い養老院といわれる聖ヒルダ養老院をつくったのもホアである。明治30年に病気で英国に帰るまでの21年にわたる日本での活動の最初の場が三田の福澤邸であった。

ホアが住み込んだ三田の福澤邸

福澤邸2階に住む

ホアは、明治8年11月に来日すると、日本の少女達と一緒に住みながらキリスト教を伝えるための、言わば寄宿学校を開ける家を探すものの難しく、途方に暮れていた。それを知った英国SPG宣教師アレグザンダー・C・ショー(1846〜1902)が福澤と話し、ショーの紹介でこの福澤の自宅の2階を提供してもらったのである。

ホアは、「もちろん彼(福澤)は、私の仕事の目的が、少女たちにキリスト教を教えることであるのはよく理解しています。彼自身はクリスチャンではありませんが、彼がキリスト教に好意的なのは確かです」と英国に報告した。

このことについては、Ladies’ Association の人たちは、キリスト教の教育に制約が生じるのではないかと、初めは納得しなかった。最終的には、SPG宣教師フェスの叔母が、ホアのいる福澤家の2階にしばらく滞在し観察して記した次の報告で解決したという。

「ミス・ホアは、生徒である少女たちの心に大きな影響を与えています。彼女は、ミスタ・フクザワの保護と支持を得て、とても有利な条件のもとにいます。ミスタ・フクザワは、彼女に何の干渉もしていません。私は、彼女に、できるだけミスタ・フクザワのところで、仕事を続けなさい、と強く助言しました。」

ここでアレグザンダー・C・ショーについて簡単に紹介しておこう。彼は、飯倉にあるアンデレ教会の創立者、軽避暑地軽井沢誕生の立役者としても有名であるが、福澤とは、明治7年に知り合ってから、福澤が没するまでの27年に及ぶ親しい友人である。明治7(1874)年、ショーが三田の大松寺に寄宿していた時に知り合うと、福澤はショーのために自宅の横に西洋館を新築した。お互いの家の間には橋をかけて両家が行き来できるようにもしたという記録も残っている。ショーは、そこに約3年間住み、福澤の子供、一太郎、捨次郎、里の家庭教師として英書の指導をしたが、その関係は家族ぐるみのものに発展した。

そのショーから相談を受けた福澤は、生徒となる少女を集めたり、家具を貸したりなど、ホアに対して数々の援助をした。また、居留地外に住めるようにホアを英語教師として雇い入れることを、東京府に届け出ている。

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