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【福澤諭吉をめぐる人々】
鎌田栄吉

2017/08/08

  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

「心身の独立を全うし自らその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの之を独立自尊の人という」。福澤精神の集大成である修身要領。これは、独立自尊を多角的に29箇条に亘り説明した中の一箇条である。福澤亡き後、その精神を唱え続け、慶應義塾を25年支えた塾長がいた。鎌田栄吉である。

何辺へ出しても人に侮られない人物

鎌田栄吉は、安政4(1875)年1月21日、紀伊国和歌山能登丁(現和歌山市)で士族鎌田鍬蔵の六男として生まれた。少年のころは、寺子屋で漢学を修め、藩校学習館で英学を学んだ。神童と呼ばれるほどに成績がよかった鎌田は、明治7年4月、和歌山県の選抜で東京に留学し、17歳で慶應義塾に入社した。翌年4月には、優秀な成績で瞬く間に卒業し、同時に義塾の教員となる。以降、鎌田は、塾長期の25年を含め47年慶應義塾の教員として関わることになる。

福澤は、鎌田を「何辺へ出しても人に侮られない人物である」と評した。その言葉の通り、鎌田は慶應義塾の教員になってから福澤の勧めや斡旋によって様々な経験をしている。例えば、明治14年8月から16年1月、鹿児島学校の教頭となっている。藩閥政治の中心である薩摩に派遣された鎌田は、純然たる英語の教師としてではなく、政治家でもあり、社交家でもあったという。実際に在任期間には、交詢社の支社も設立している(鎌田は、交詢社の創設にも携わっており、その後は演説の名手として全国各地の演説も任されていた)。他には、19年9月から翌年6月、福澤の郷里大分県の師範学校長にも着任させられている。当時は、多くの塾員が塾の外交使節や、理念の宣伝機関のような使命を持ち、地方の学校などへ派遣されていたが、中でも鹿児島と大分という特別な地へ派遣された鎌田は、福澤の信頼が厚かったことが伺える。さらに、特筆すべきは明治17年1月から19年9月まで、内務省御用掛を務めたことである。明治14年の政変以降、塾と政府は疎遠であった中、福澤は、政界との関係を復活する橋渡し、また、官民調和論の端緒を開く役回りとして鎌田に期待をしていた。

もちろん塾内でもその存在感は発揮されていた。12年頃、慶應義塾は危機的な財政難に見舞われた。福澤は、教員会議にて教員数を減らす提案をする。しかし、鎌田は塾の魅力は教員数であり、それを減らすくらいならば教員の給料を半減するのが良いと反論し実行している。義塾の給与は官立に比べ低い中、どんなに貧しくても塾とその魅力を継続させたいという鎌田の愛情と気概は、塾にとって大きな力となった。また、学者としては、慶應義塾で擬国会を開会する際、福澤から相談を受けるほど議会制度に通じていた。

新進の慶應義塾長の誕生と功績

鎌田が塾長になったのは明治31年4月のことであった。この前の塾長は、小泉信吉、小幡篤次郎であったが、社頭の福澤と経営上の方針が合わずに辞任してしまうことが続いていた。その中で、当時42歳と壮齢の鎌田の人選は大抜擢であり、新たな活気を注ぎ込んだ。しかし、鎌田塾長就任からわずか5カ月後慶應義塾にとって大きな不幸が訪れた。福澤の大患である。脳溢血で倒れた福澤は、その後一度は奇跡的な回復を見せたものの明治34年2月、二度目の発病によりついにその生涯に幕を閉じることとなった。

福澤亡き後の慶應義塾にとって、まずは、財政基盤を整えることが喫緊の課題であった。福澤が私財を投じ、教員の給与を減らし、卒業生から臨時にお金を集めてなんとか繋いできた訳であるが、その経営にも限界がきていた。そこで提案されたのが、年会費で寄付を募る維持会の発足であった。鎌田は、有力な資産家から多額の資金を得る従来の形のみならず、英国の郵便制度からヒントを得て、一口50銭という少額で、寄付を集めることにこだわった。福澤亡き後、慶應義塾をより多くの塾員で支えることこそ大切であると考えていたのである。ちなみに「三田評論」(当時は前身の「慶應義塾学報」)が維持会員に贈呈される仕組みが考案されたのもこの時である。

鎌田をはじめ教員や先輩有志は、この維持会入会の斡旋と宣伝のため全国を巡回した。この活動は、地方の塾員に塾の現状や修身要領の真意を伝えることになり、単に資金獲得に留まらず、塾と塾員との関係を非常に親密にする役割も果たした。これらの取り組みも実を結び、36年頃には、維持会員の数も激増し、塾の経理は初めて収支面で黒字を出すようになる。鎌田はそのお金を利用し、初期の早慶戦も行われた綱町グラウンドの購入や、寄宿舎の増改築、大講堂の新設など塾内施設の充実化をはかった。これは、福澤の体育を重んじた思想、寄宿舎を通じた人格の養成、品性の陶冶、塾内での演説や集会の重要性をしっかり理解していたからであろう。

また、鎌田の資金集めの手腕は、創立50周年でも発揮された。義塾のシンボルとも言うべき図書館も、防火等にも工夫し、且つ広く公開をとの理想の下、多額の寄付金を得て建てられた。さらに、この時には、数年来の宿題であった福澤名義の慶應義塾を法人化することも成し遂げている。他にも医学部の新設など、現在の慶應義塾を形作る重要な決断も下している。無形の貢献としては、私学初の教員留学生制度の確立があげられる。塾内の若い逸材を海外に留学生として派遣することで、外国人の教員に頼ることなく塾自前の教授が教壇に立つことになった。後の塾長小泉信三もこの制度を利用し英国やドイツに赴いている。

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