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【福澤諭吉をめぐる人々】
後藤象二郎

2017/07/07

『伯爵後藤象二郎』(冨山房、1914年)より
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

福澤諭吉が最も親交を深くした政治家は大隈重信と後藤象二郎だったという(『福澤諭吉伝』4744頁)。大隈との関係はよく知られているが、福澤が後藤を高く評価し、また実際に深く肩入れしたことはあまり知られていない。「前世界の大象」(大町桂月『伯爵後藤象二郎』)と評されるつかみ所のない後藤を、なぜ福澤は評価したのだろうか。

生い立ちから下野まで

天保9(1838)年3月19日、後藤助右衛門正晴の長男として土佐に生まれる。幼名は保弥太、後に良輔。近くに住んでいた板垣退助とは幼い頃から仲が良かった。義理の叔父・吉田東洋の薫陶を受け学問の基礎を身につけた。同門に三菱の創設者・岩崎弥太郎がいる。その後、江戸の開成所に入所し学ぶ。徐々に頭角を現し、土佐藩の大監察として実権を握るまでにいたる。維新に際しては、山内容堂に公武合体策を説得し、また、徳川慶喜を説得し慶應3年、大政奉還を実現させた功労者として名高い(のちに伯爵叙爵)。維新後は新政府の要職(大阪府知事、工部大輔、左院議長、参議など)を歴任した。明治6年、征韓論争で下野し、翌年『民撰議院設立建白書』を板垣らとともに左院に提出し、愛国公党を結成する。その頃から政治資金のため、蓬莱社を設立し、経営にあたるが、苦戦する。8年、元老院議官となり、互選で副議長に就任する。

高島炭鉱譲渡

福澤と後藤が親しくなったきっかけは、良質な石炭を産出する高島炭鉱(長崎県)の譲渡をめぐる問題であった。 7年11月10日、後藤は大蔵省から55万円で高島炭鉱払下げを受けた。しかし資金が乏しかったため、即納分の20万円を外国資本のジャーディン・マセソン商会から全額借り、残りの35万円は7年間の分割払いで経営を開始する。炭鉱の利益は商会側が利息とともに高い手数料を受け取る形で後藤側に渡らないよう契約しており、後藤には重い負債が積み重なっていった。11年、同商会は後藤を相手に石炭販売と機械使用の差し止め、負債126万ドルの支払いを求めて提訴した(最後は110万ドルの支払いで和解)。福澤によれば後藤の負債総額は130万円になり、後藤は政治活動ができない状態に陥っていた。

福澤は外国資本が炭鉱を実質支配することを防ぎ、政治家として高く評価する後藤を負債から救うため、頼まれてもいないが譲渡交渉に奔走する。11年10月から石川七財、荘田平五郎、山東直砥を通じて岩崎弥太郎の三菱に対して炭鉱買収を働きかける。翌年10月には岩崎に「同君ノ天稟、商業ニハ不適当ナレトモ、人品ノ清貴磊落ニシテ、正ニ今ノ社会ノ大事ニ適ス可キハ、朝野ノ評シテ疑ヲ容レサル所」(『福澤諭吉書簡集』2、275頁)と後藤への評価を伝え、熱心に買収を持ちかけるが、岩崎は承知せず、福澤は大隈と一緒になって説得を続けた。13年7月に岩崎はついに買収を決意した。福澤は「誠ニ近年之一大快事」と手放しで喜んだ(『書簡集』3、6頁)。

翌14年3月、三菱は高島炭鉱を97万1,600円で買収し、後藤に毎月1,000円を支払うことで合意した(後に10万円一括払いで解消)。結局、福澤の見込み通り、後藤は負債を清算し、毎月の収入を得る一方、三菱も高島炭鉱の良質の石炭で大きな利益を得ることができた。

これを機に福澤と後藤は頻繁に往来するようになり、福澤は後藤の大胆磊落な人柄と伝統的習慣に無頓着な不羈自由の思想に魅力を感じたようだ。後藤の秘書を務めた塾員の三宅豹三によれば、福澤の静粛な家庭とは対照的に後藤の家は常に賑やかだった。しかし福澤は後藤の家に来ると寛ぎ、かえって後藤の方が厳格に座って敬意を表した。後藤が福澤の家を訪ねたとき、話が長引き夕食をともにしたが、後藤は食事に贅沢でアイスクリームを好み「世の中には氷を生で食べるという野蛮人があると常々罵倒」していたが、食後に福澤が自ら氷を削って出すと、後藤は「旨さうな顔」をして食べたという(『福澤諭吉伝』2、533頁)。

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