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【福澤諭吉をめぐる人々】
緒方八重

2017/04/04

塾生の母として

適塾は、弘化2(1845)年12月、過書(かしょ)町の現在の地に引っ越した。

この塾は、奥行きの長い2階建ての建物となっていた。下の中庭を隔てた奥に洪庵やその家族の部屋があり、塾生たちは表に面した部屋と2階の40畳とが居室となっていた。この居室が教室も兼ねていたため、このふた部屋に絶えず数十人の塾生が生活していた。

塾生は、原書が手に入れば寝る暇を惜しんで、交代で書き写し、翻訳したりと、非常に熱心に勉学に励んでいた。また物理学や化学に興味を持った塾生は原書を読んでは我流で実験を試み、学問の心を満足させていた。適塾は、蘭方医の塾とはいえ実際のところは、蘭学書解読の研究所のようなもので、塾生には、医師に限らず兵学家もいれば、福澤諭吉のように「目的なしの勉強」に打ち込む者もいたりと、蘭学を志す者が集まっていたのである。福澤は後に、「学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろう」と『福翁自伝』の中で述べている。

しかし、塾生たちは、勉学に向けてだけこのようなエネルギーを発していたわけでなない。20歳前後の血の気の多い若者たちの勉学以外でのエピソードは、『福翁自伝』でも数多く読み取ることができる。塾生たちは酒の飲み代のために刀を質屋に入れ、夏は文字通りの真っ裸で暮らした。また体を洗うたらいが、野菜を洗うたらいになり、時にはそのたらいで素麵を茹で食べるといったように、衛生面には全くの無頓着であった。

また塾生たちの暴れぶりは、適塾内ではおさまらず、外に出かけては様々な問題を起こして戻ってくる始末であった。そのような塾生に対し、洪庵が誠実・真摯・そして寛容な態度で臨み、彼らを指導し訓育していたが、それにも増して、これを助ける八重の苦労と努力は並大抵のものではなかったはずである。

洪庵は、あまりにも度を越した塾生に対しては、塾の秩序を守るために厳格なる態度で臨み、時には断固として破門を命じていた。その度に、八重はこれをなだめたり、身をもって塾生をかばったりしたのである。そのため、八重は、塾の規則を破って深夜乱酔放歌して帰ってくる者を洪庵に気づかれないように介抱し、そっと寝床に連れて行って寝かしたり、時には外出先の不始末に対して、自ら足を運び、示談で済ましたりしたことも数限りなかったとも言われている。

八重は、福澤のような貧しい食客生に対しても差別することなく、よく世話をして励ましたりする人でもあった。また、使用人や奉公人に対しても温情親切、一人ひとりの人格を認めてその過失などに対しては、一度も怒ったり責めたりしたことはなかったという。

このように、適塾に集ってきた多くの門下生にとって八重は、まさしく慈母のごとく慕われていた。誰に対しても差別なくかわいがり、よりよき相談相手となり、訓すべきところはよく訓し、その将来を誤らないように導いていたのである。

やがて、幕府奥医師兼西洋学問所頭取となった洪庵は、文久2(1862)年、江戸に向かうことになったが、翌年6月に54歳で急死してしまう。その後も、八重は9人の子供たちを育てあげ、ロシア、オランダ、フランスへと3人の息子たちを幕府留学生として海外へ送り出した。

そして、洪庵が亡くなって5年後、八重は、明治元(1868)年に、大阪に戻り、元種痘所を隠居所として暮らし、明治19年、65歳でその生涯を閉じた。塾生たちに「おっ母(か)さんのよう」(『福翁自伝』)と慕われた八重の葬列は2千人を数えていたという。

適塾の台所(提供:大阪大学適塾記念センター)

八重との別れ

福澤にとっても、緒方洪庵が父親のような存在であったと同時に、八重もまた、自分の母親のような存在であった。

八重が亡くなった後、福澤は早速墓参に訪れている。明治19年3月、福澤は洪庵夫妻の墓参のために、大阪の龍海寺に詣った。この時、随行していた塾員の酒井良明が手伝おうとすると、福澤は、「これは私のすることだ」と言って、着物の袖をくくり、裾を絡げながら縄をたわしにして、洪庵夫妻の墓石を綺麗に洗い上げた。

墓参を終えると、福澤は元適塾の建物に、洪庵の養子緒方収二郎を訪ねた。同行者の談によれば、そこには、洪庵の娘の八千代(収二郎夫人)と九重と思われる2人もいた。そして、この2婦人と福澤が八重生前のことをしめやかに語り合う様子は、まるで真実の兄妹同士のようであり、傍にいた者もその姿に涙を拭ったという。

福澤は、それまでも、洪庵亡き後も、大阪に行った際に、緒方の家を訪問しないことはなかった。それは「故先生はいないでも未亡人がわたしを子のように愛してくれるから」、と『福翁自伝』でも語られている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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