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【福澤諭吉をめぐる人々】
緒方八重

2017/04/04

緒方八重肖像(五姓田義松画:大阪大学適塾記念センター所蔵)
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

緒方八重(おがたやえ)(文政5〔1822〕年~明治19〔1886〕年)は、緒方洪庵の妻としてその名が知られている。福澤諭吉をはじめ数多くの有為の人を輩出した適塾は、1,000人以上もの塾生が学んだと言われている。その適塾を陰ながら支えたのは他でもない、この八重であった。

八重の生い立ち

八重は、文政5年1月1日に摂津国名塩(なじお)(現在の兵庫県西宮市名塩)で父億川百記(おくかわひゃっき)、母志宇の長女として誕生した。名塩は紙漉きの産地でもあったが、億川家ももともとは紙漉職であったという。雁皮に、泥を漉き込む独特の技法で漉かれた名塩和紙は、色焼けしにくく、燃えにくく、虫食いの害を防ぐことができるため、江戸時代には藩札用紙として全国的に普及していた。当時は名塩千軒と称され「紙漉きの里」として繁栄していた。しかし、百記はかねてから医師になることを志しており、大阪に出た機会に、蘭学医の中天遊(なかてんゆう)の私塾、思々斎塾(ししさいじゅく)に入門し、勉学に励み、故郷名塩において長年の夢であった医師を開業し、薬の製造販売業も行った。

八重は、幼少の頃より素直で鋭敏な性格で、和歌も上手であったという。百記は、八重を目に入れても痛くないほどにたいそう可愛がった。

百記は、医師になってからも度々天遊の塾へ出入りし、指導を受けていたという。その天遊の塾へ入門してきた青年が緒方洪庵だったのである。その後、天遊から洪庵賞讃の言葉を聞いていた百記は洪庵を見て、「真に我が婿なり」(高林寺・緒方洪庵夫人之墓の佐野常民撰の碑文)と思ったという。八重と婚約した洪庵は、百記の援助も得て、約2年間、長崎で修業した後に故郷に戻り、天保9(1838)年、大阪瓦町に出て医師を開業した。この年、洪庵と八重は結婚の式を挙げた。洪庵29歳、八重は17歳であった。

妻として母として

洪庵は、瓦町にて医院を開業しただけではなく、同時に蘭学を学ぶ大勢の塾生を同居させて、寝食の面倒を見ていた。これが「適塾」の起源である。つまり、八重にとっては、新婚当初から学生寮の寮母としての役割も担っていたわけである。一方で、八重は、洪庵との間に13人の子に恵まれた。うち4人の子を幼くして亡くしているが、その母親としての役目もあった。

洪庵は瓦町に開業当初は、まだ名声もなく生活も苦しかった。洪庵が長く病床に臥した時には、八重は自分の帯を売り、それで風呂桶を買い求めて、戸板を囲んで洪庵に湯を使わせたと、晩年に自ら追想している。しかし、洪庵と八重の日常の生活は、洪庵が名声を得てからも変わらず、質素なしかし温かなものであった。着物などは10年近く新調したことはなく、また食事は一汁一菜で通したが、細心の注意を払い、子供達が満足するよう工夫したものであったという。

夫である洪庵に対しての八重の優しさは、その両親に対しても変わらなかった。毎年、年末には寒中見舞いとして、数の子、棒だら、昆布、年頭の餅料を送っていただけでなく、洪庵の父の病気全快を祝っての贈り物や、洪庵の姪たちへの贈り物や着物の見立てなどもした。勿論、名塩の八重自身の両親への細やかな優しさも同じであった。そして何よりも、洪庵の実家と八重の実家の仲が良かったことは、八重にとっても洪庵にとっても仕合わせなことであった。

子供達には、絶えず洪庵を手本にし、父洪庵の苦学の様子を語って励ます母親であったと、後に、億川摂三(八重が大叔母に当たる)が語っている。

しかし、時に心を悩ますこともあった。例えば、しっかりと漢籍を修め、蘭語研究の基礎にしなければならないと考えていた洪庵は、息子の平三が7歳の時から漢学を学ばせ、12歳 になった時、20歳になるまでは漢学を修めよと訓戒して、11歳の四郎とともに、門人渡辺卯三郎の元に預けて修業させたことがある。

ところが、卯三郎の塾で学ぶこと2年余が過ぎる頃、越前の大野藩で、適塾で塾頭を務めた蘭学者の伊藤慎蔵を招いて大野洋学館を開校したという話を知った平三と四郎は無断で抜け出し、この伊藤慎蔵の塾へ身を寄せてしまったのであった。このことを知った洪庵は2人を勘当したのであるが、八重からそのことをこっそり伝え聞いた実家の父百記が大野まで様子を見に行ったこともあった。

現代でいえば小学校高学年ほどの年齢の、我が子に対する洪庵の行動に八重はどのような思いでいたのだろうか。八重は子を10歳そこそこで親元から遠く離れたところで学ばせ、その後長崎への留学もさせ、時に心を悩ませながらも、子どもらが将来大成することを願う。そこには、適塾の塾生たちを見ながら、その向こう側にいるそれぞれの親を見ていたのかもしれない。

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