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【福澤諭吉をめぐる人々】
杉 亨二

2017/02/02

統計の作り手として

明治になると徳川家とともに駿河へ移った杉は、開成所時代に培ったドイツ社会統計学の知識を基に人口調査「駿河国人別調(するがのくににんべつしらべ)」を試みるが、途中で静岡藩の重役の反対を受けて、沼津、原の二宿のものだけを残すのみとなっている。

だが、その業績は中央政府の聞くところとなって、明治4(1871)年には政府から出仕を求められ、太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長)に挙用され、日本で最初の統計年鑑に相当する『辛未(しんび)政表』(明治4年分)や『壬申政表』(同5年分)を編む。なお、この「政表」とは、福澤が万延元(1860)年に岡本周吉の名で出版させた『万国政表』で初めて用いられた、statistik というオランダ語の訳語である。

さらに明治12年には、「駿河国人別調」での経験を踏まえ、「スタチスチックの大目的たる、全国総人員の現在調査を行はんこと」(『自叙伝』)を志す。その大事業に向けて、調査方法の検証や必要経費を把握するために、政表課職員を率いて山梨県で試験的に「甲斐国現在人別調」を実施する。これは、個別世帯票を用いて、人口の性別、年齢、配偶関係、出身地、職業などを記録、集計するもので、日本における国勢調査の先駆といえる。

杉は、14年には太政官統計院大書記官となるが、18年には統計院が廃止されたことを機に官職を辞し、以後は民間の立場で後進の育成に専心した。

その後、43年に、請われて国勢調査準備委員会委員となり、ほとんど視力を失っていたにも拘らず国勢調査の実現に尽力するが、大正6(1917)年、第1回国勢調査の実現を見ずに90歳でその生涯を閉じる。

統計家・統計学者の育成

杉は、「早晩此の学問が我邦に開け行くであらう又開け行かせねばならぬと信じ」(『自叙伝』)統計家の育成にも力を注いだ。

明治9年に統計学研究を目的とする学術団体「表記学社」を創設し、11年に「スタチスチック社」に改称後には約2年間にわたり、ドイツの統計学者ハウスホーファー(Max Haushofer)の著書に基づいて統計学の講義を行った。また、11年には、福澤門下の小幡篤次郎や阿部泰蔵らに協力して「製表社」を設立した。現在の一般財団法人「日本統計協会」は、このスタチスチック社と製表社の流れを汲むものである。

杉はさらに明治16年、統計学の専門学校である「共立統計学校」を設立した。ここで杉は、自らの講義に下記のような合字を冠した。statisticsの訳語をめぐっては、前述のとおり福澤が「政表」と訳して以来、多くの変遷があり、杉自身も「表記」「形勢学」など試行錯誤をしているが、世の中で定着しつつある「合計」をも意味した「統計」という訳語には抵抗があったようで、下記のように当て字を創作したのである。

[寸多] [知寸] [知久] (スタチスチク)

杉はこれらの活動を通して、呉文聰(くれあやとし)や横山雅男など明治、大正期の統計学、統計制度を牽引する多くの人材を育てた。

福澤との関係

福澤は、長崎、適塾、江戸中津藩家塾という杉が歩んだコースを、約6年遅れて歩んでいく。

本格的に2人が交流をもつのは、明治6年に設立された明六社となる。2人は明六社発足時の10名の会員に名を連ねており、杉は機関誌『明六雑誌』に10編の論文を寄稿している。その後『明六雑誌』は、8年に福澤が出した「明六雑誌の出版を止るの議案」により廃刊となるが、杉はその議案への賛成者の1人であった。

10年には、福澤は杉に、日米英仏で当時通用している貨幣に関して問い合わせの書簡(現存する杉宛の唯一の書簡)を出しており、杉の回答と思われる計数が翌年出版の『通貨論』に掲載されている。

12年には日本学士院の前身である「東京学士会院」が福澤を会長として設立される。この開設にあたり、福澤は前年末に出した文部大輔田中不二麿宛の書簡の中で、会員の人選は「年齢ト品行トを第一として」当たりたいとして、杉を含む7名を推挙しており、杉は実際に設立時の会員となっている。

また、12年に福澤が大隈重信に宛てた書簡に同封された「スタチスチックの仲間」の名簿に、「統計局の人」として杉の名が挙げられている。これらのことから、いかに福澤が学識や品位の面で杉を信頼していたかが窺える。

杉は、政府における中立な中央統計機関の設立と人口センサスの実現を目指し、それに反する、またはそれに関係のない仕事や政治的動きには一貫して背を向けた。自己の信念に基づいた独立の精神をもっていた点は福澤に共通する。また大目標の達成のために、人を育てることに力を入れた点も、2人に共通していた。

一方で、竹内啓他『統計学辞典』も指摘するように、2人の統計に対するアプローチは対照的であった。杉が「甲斐国現在人別調」などを実施し、国勢調査の実現に奔走するなど、統計の「作り手」の先駆であったのに対して、福澤は例えば『文明論之概略』の中で大量観察や相関関係を紹介し、統計的なものの見方の重要性を論じるなど、統計の「使い手」として極めて先端的であった。これは、学んだ統計学の軸足が、杉はドイツ流であったのに対して、福澤はイギリス流であったことにも因っていると考えられる。

『明六雑誌』(第2号)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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