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【福澤諭吉をめぐる人々】
杉 亨二

2017/02/02

  • 馬場 国博(ばば くにひろ)

    慶應義塾湘南藤沢中・高等部教諭

杉亨二(すぎこうじ)は、幕末から明治にかけて、わが国に欧州の統計学を導入し、統計の発展のために活躍する多くの人材を輩出した「日本近代統計の祖」とも呼ばれる人物である。明治政府の官僚として官庁統計の基盤を築くとともに、生涯を通じて人口センサス(国勢調査)の実現に向けて尽力した。

生い立ち

杉亨二は、文政11(1828)年、肥前国長崎(現長崎市籠町)に生まれた。10歳頃に両親と死別し、時計師上野俊之丞が営む舶来店に奉公に出た。この店では西洋の機械器具や蘭書などを扱っていたため、長崎を訪れていた蘭学生には、上野邸に出入りをする者も多かった。その中には適塾を開塾する前の緒方洪庵もいた。

弘化2(1845)年上野舶来店を辞め、大村藩医村田徹斎の書生となった後、嘉永2(1849)年には大阪へ行き、22歳で適塾に入門した。これは福澤諭吉が入門する6年前のことである。『杉亨二自叙伝』(以下『自叙伝』)には、「緒方洪庵の所に行き、学資金も無いから写本をするか、按摩をとつて修業したいと願つた、先生も承知して呉れて夜分門限も許された(中略)書生一人一畳敷に竹で仕切をして、其内に銘々机、行燈、夜具を置いて居るので誠に狭い、掃除の時は互に、塵埃の送り合ひをするので蚤が夥しい朝起きて見ると、からだは鹿の子斑の様になつて居る、若いから我慢が出来たが実につらかつた。」との記述があるように、苦学であったようで、夏には脚気となり、適塾を退塾して大村へ戻り再び村田徹斎の書生となる。

だが、翌年に村田が大村藩の江戸詰に任命されるのに同行して江戸へ上った。江戸では松代藩村上英俊らに師事し、嘉永5年に杉田成卿(せいけい)の塾に入門する。杉田は『解体新書』の著者の1人、杉田玄白の孫である。

中津藩中屋敷で教える

杉は嘉永6年、中津藩士岡見彦三に請われ、築地鉄砲洲の中屋敷で藩士に蘭学を教えることになる。『福翁自伝』には、「奥平家が私を其教師に使ふので其前松木弘安杉亨二と云ふやうな者を雇ふて居た」との記述があり、杉は福澤の前々任者ということになる。

「奥平では月二両の手当で、一軒の宅を与へられ、一僕を置いて、爰(ここ)に居住し、邸内の若い人に蘭学を教へた。矢張ガランマチとセーンタキスで、以前は写したものだが此時分には版になつた。それから又物理学の本などを教へた。」(『自叙伝』)

しかし、杉がここで教えていた期間はわずか数カ月に留まる。『自叙伝』には「奥平屋敷に居る内、面白く無い噂を聞いて不快に感じて即日屋敷を出で」との記載があるが、中津藩内の開明派と保守派との争いに巻き込まれたものと考えられる。 その後、杉は勝海舟邸を訪問し、その塾生となることを許され、後には塾長にまでなっている。

安政2(1855)年には老中阿部正弘の侍講となり、収入も安定して所帯ももつ。この頃、欧州への留学の嘆願書を提出していたが、阿部が急逝し、留学は実現しなかった。杉は生涯で一度も外国に行く機会に恵まれなかった。

スタチスチックとの出会い

杉は安政7年に蕃書調所教授手伝、元治元(1864)年からは開成所の教授並となり、学生に洋学を教える一方、外交文書や外国新聞等を翻訳して幕府に提供する立場になる。蕃書調所には、同時期に短期間ではあるが、外国方通弁として福澤もいた。

この仕事の中で杉が出会ったのが「ロッテルダム・コーランド」というオランダの新聞(週刊紙)に掲載されていたドイツ・バイエルンの識字率に関する教育統計の記事であった。それを読んだ杉は「斯う云ふ調をすることが必要で有ると云ふことを感じ(中略)是れが余のスタチスチックに考を起した種子になったのである」(『自叙伝』)と述べている。

また慶應元(1865)年には、幕府の命でオランダのライデン大学へ留学していた津田真道(まみち)らが帰国し、翌年から開成所に出勤すると、フィッセリング教授の講義ノートを見聞きする中で、人口統計の部分に惹かれる。「これは世の中のことのわかる、面白い者だと思つて(中略)それから益々深入りした」(『自叙伝』)という。杉はこの統計学講義ノートの一部を翻訳し、『形勢学論』と題して残している。

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