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【福澤諭吉をめぐる人々】
漂流人 山本音吉

2016/12/12

福澤の眼差し

使節団と会談した音吉は、上海で見聞きした中国の混乱ぶりを詳細に語り、福澤はそれを克明に書き留めた。キリスト教を信仰する人々による大規模な反乱となった太平天国の乱(長髪賊の乱)の様子である。音吉の口からは、清朝軍、賊軍のいずれにも加担せずに、隙あれば中国を陥れようと戦況を見守る、圧倒的な軍事力を擁する英仏軍、そして内乱の中で翻弄される民衆の姿が語られた。福澤は、音吉の信頼のおける確かな描写に、日本の近い将来に起こり得ることと、危機感を募らせたのではないだろうか。福澤は『西航記』の中で、外遊中に自ら見たことを余すところなく書き残しているが、人から聞いた話にこれだけ多くの紙面を割いているのは珍しい。

福澤は、香港でも、靴を売り込む中国人を強圧的に追い出したイギリス人の態度に衝撃を受けていた。こうして、イギリスの植民地と化したアジアの2つの港町で得た見聞は、この後、欧州を周って思い知らされる西洋文明の圧倒的な力と相まって、日本という国の独立を保つためには、まずは文明を推し進めなければならない、という福澤の思想に影響を与えたに違いない。

長州藩士ながら小使の身分で使節団に加わった杉孫七郎は、音吉との会見を「異郷遇漂客 対話涙潸然 豈得無帰思 辛苦三十年(異郷にて漂客に遇(あ)う対話して涙潸然(さんぜん)たり あに得んや帰思(きし)無きを 辛苦すること三十年)」(『環海詩誌』)と感慨を込めて漢詩に残した。福澤が音吉の半生を聞いて涙したかは分からないが、『西航記』から読み取れるのは、音吉から聞いたことを寸分漏らさず正確に記述しようとする福澤の態度である。それは、日本の身分制度から解き放たれ、いち早く国際人となっていた音吉を1人の独立した人と認め、その音吉から多くを学ぼうとする姿勢であったのではないだろうか。一方、音吉が使節団を訪ねたのも、日本への帰国を懇願するためではなく、いち早く世界を見てきた自身の見聞が、漸く世界に扉を開こうとする祖国の代表団の役に立てればという思いからであったように感じられる。

「ハジマリニ カシコイモノゴザル」

使節団は、わずか1泊でシンガポールを出港し、カイロを経由してパリへと向かった。パリに着いた使節団は新たな珍客の訪問を受けた。フランス政府から使節団の通訳兼接伴委員に任ぜられたレオン・ド・ロニという若い男である。ロニは独学で日本語を学び、日本風の生活をしているという大の日本好きであった。福澤は、ロニと親交を深め、ロニとの会話や彼の道案内を通じて、多くの西洋事情を吸収することができた。そのロニが東洋語学校の学生時代に、日本語学習に役立てたのが、音吉が手伝って最初の和訳聖書となったギュツラフ訳『約翰福音之伝』(ヨハネによる福音書)と『約翰上中下書』(ヨハネ第1、第2、第3の手紙)であった。「ハジマリニ カシコイモノゴザル」という独特の和訳で始まるこの聖書の一部は、1837年、シンガポールで出版されたものの、肝心の日本に伝わることはなかった。しかしロニは、日本語研究のために、その一部を『約翰福音之伝、約翰中書附』としてパリで出版していたのである。

遣欧使節団は、ヨーロッパ各国から開港延期の同意を取り付け、その使命を果たして帰国した。しかし、第2の使命とも言えるヨーロッパの状況視察は、その後の幕政に生かされることなく終わった。使節団がヨーロッパを周っている1年の間に、国内では生麦事件が発生、帰国翌日には長州の高杉晋作らによるイギリス公使館放火事件が起きるなど攘夷の波は最高潮に達していた。そのため、ヨーロッパでの見聞を口外することさえ、はばかられていたのである。結果としてシンガポールの音吉の存在も、随行員たちの私的な記録の中にだけ残されることになった。

1960年代になって漸く、日本聖書協会の調査により、最初の和訳聖書作成を手伝った音吉はじめ3人の存在と、彼らが愛知県小野浦の船乗りであったことが明らかになった。地元の良参寺には宝順丸で遭難した音吉たちを含む14人の名を刻む墓石があり、命日は鳥羽を出港した翌日となっていた。こうして、シンガポールでイギリスに帰化し、1867年に幕を閉じるまでの、音吉の波瀾に満ちた生涯が知られるようになった。

さらに故郷に設立された音吉顕彰会の活動によって、シンガポールの音吉の墓所が見つかり、平成17(2005)年、分骨した音吉の骨が173年ぶりに帰国して、良参寺の墓石に葬られた。昭和36(1961)年には小野浦の浜を見渡す場所に「岩吉・久吉・乙吉(音吉)頌徳記念碑」が建てられた。平成28年10月、第55回聖書和訳協力者頌徳記念式典が開催され、同碑の前で、筆者が「山本音吉と福澤諭吉」と題する講演を行った。

頌徳記念碑(愛知県美浜町)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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