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【福澤諭吉をめぐる人々】
漂流人 山本音吉

2016/12/12

  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

福澤諭吉は、開港の延期を交渉するために幕府から派遣された遣欧使節団の通詞(つうじ)(通訳)として、2度目の海外渡航の旅に出た。使節団を乗せたイギリス軍艦オーディン号が、香港を経由してシンガポールに錨を下ろしたのは文久2(1862)年1月(旧暦)のことであった。福澤の書いた『西航記(せいこうき)』によると、「第一時上陸し馬車に乗り旅館に至り、夜本船に帰る」とあり、福澤は三使節(正使、副使、目付)に従ってホテルへと赴いた。そして、使節団がホテル内で一息ついているところに、突然、日本人が面会を求めてきた。その男は自らを音吉と名乗った。

音吉の半生

福澤は、『西航記』に「旅館にて日本の漂流人音吉なるものに遇(あ)へり」の一文に続いて、音吉の驚くべき経歴を書き留めている。ここでは福澤たちと同様に、音吉の半生に目を向けよう。

音吉は、尾張国(愛知県)知多郡小野浦村の船乗りであった。天保3(1832)年、音吉が14歳の時、鳥羽港から多くの積み荷を載せて江戸に向かう宝順丸に乗り込んだが、この船が強風と高波によって、遭難する。宝順丸は14カ月もの間、漂流を続け、ついに太平洋を越えてアメリカの東部沿岸に漂着した。この時、乗組員のうち、音吉と岩吉、久吉(きゅうきち)の若い3人は、奇跡的に生きながらえた。噂を聞きつけたイギリスのハドソン湾会社の太平洋岸総責任者マクラフリンは、アメリカ先住民によって保護された3人を引き取り、サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)、ケープ・ホーン(南アメリカ南端)を経由してロンドンへ送った。マクラフリンは、音吉たちの日本送還をイギリスと鎖国中の日本との交易開始に利用しようと考えたのである。ロンドンに10日間滞在した音吉たちは、テムズ川の船上での生活を強いられたが、1日だけ上陸を許され、ロンドンの街を歩いた。こうして、3人は、福澤たち遣欧使節団より先んじて、最初にロンドンの土を踏んだ日本人となった。

その後、3人は再び船に乗り、今度は、ケープ・ホープ(アフリカ南端)を周(まわ)って、マカオに向かった。当時、マカオは中国(清朝)の中で唯一、ヨーロッパ人の居留地がある港町であった。マカオに着いた3人は、中国語通訳官でキリスト教宣教師でもあるチャールズ・ギュツラフのもとに預けられ、ギュツラフが日本にキリスト教を布教するために取り組んだ、聖書の和訳作業を手伝った。

天保8年、音吉たちを乗せたアメリカ商船モリソン号が江戸湾に侵入した時、浦賀奉行は、異国船打払令に基づき、非武装の船に向かって砲撃を加えた(モリソン号事件)。次の寄港地、鹿児島でも砲撃を受けたモリソン号は、音吉たち漂流人を日本に上陸させることなくマカオに帰還する。こうして、音吉は、日本への帰国をあきらめ、移民としての生活を歩むことになる。

音吉は、上海に移り住み、イギリスのデント商会で働きながらイギリス系移民の子である妻と3人の子との家庭を築いた。音吉は、上海で商売上の成功を収めるが、「近頃病に罹りて、摂生のため」(『西航記』)、妻の生まれ故郷であるシンガポールに移住してきた。遣欧使節団到着のわずか10日ほど前のことである。(参考:春名徹著『にっぽん音吉漂流記』、三浦綾子著『海嶺』)

長崎での奇遇

福澤は、音吉の話を聞いているうちに、あることに気がついた。「余仔細に其面色(そのめんしょく)を認(みとむ)るに、嘗(かつ)て見ることある者の如し」(『西航記』)。福澤の問いに音吉は、9年前にイギリスの軍艦に乗って長崎に行ったことがあると答えた。

音吉は、モリソン号事件の後、2度、日本を訪れていた。1度目は、イギリス軍艦マリナー号に中国人通訳「林阿多(りんあとう)」として乗船し、浦賀、下田に来航した時であり、2度目が嘉永7(安政元、1854)年閏7月、イギリス極東艦隊の通訳として長崎に上陸した時であった。長崎来航時は、すでに幕府とアメリカのペリー提督のもとで日米和親条約が締結され、日本に開国の道が開かれようとしていたから、音吉はもはや氏素性を隠すことなく、イギリス司令官と長崎奉行の会見に通訳として立ち会った。

一方、福澤が兄三之助の勧めに従って蘭学を学ぶために中津から長崎に向かったのは、同じ年の2月のことであった。長崎に来航したイギリス艦隊と、通訳音吉の噂は長崎の街中に広まったのであろう。交渉のため上陸したイギリス使節団と音吉の姿を一目見ようと見物人が殺到した。そして、その中に福澤の姿もあったのである。

この時、長崎の役人たちは、音吉を日本人として引き取ろうとしたが、音吉の方が、上海に残してきた妻子を見捨てるわけにはいかないと、申し出を断った。漂流以来、唯一の帰国の機会を自ら拒絶して、音吉は上海に戻っていった。

それから9年後のシンガポールで、福澤は、長崎で見た音吉の容姿を本人を前にして思い出したのである。

林阿多(山本音吉)(『海防彙議補』[国立公文書館蔵]より)
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