三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
木暮武太夫

2016/07/04

衆議院議員として

第1回衆議院議員選挙では義塾出身者が26名当選し、第1議会開会までに2名が補欠当選した(寺崎修「第1回衆議院議員選挙の当選者たち」『三田評論』1073号)。議会召集直前の23年11月17日、義塾出身衆議院・貴族院議員26名は築地寿美屋にて福澤を招いて同窓会を開催した。福澤は挨拶で同窓の旧情が大切であることを述べた上で、「和して和す可き部分だけは政治上の熱情を離れて同窓の旧情に訴え、以て帝国議会の波瀾を静にするは、啻に国に忠なるのみならず、諸君の故郷たる慶應義塾をして間接に忠の名を得せしむるもの」(『福澤諭吉全集』12巻、537─538頁)と義塾出身議員に議論を戦わせることが感情の対立にならないよう訴えた。この会には木暮も出席し、幹事総代として閉会の辞を述べている。

第1回総選挙で木暮は群馬県第四区において464票を獲得し、422票の島田音七を破って当選した。ところが、島田は選挙区内の東村で選挙資格のない者が投票したとして木暮の当選無効を主張し訴訟を提起し、東村の村長ら36人を選挙法違反で告訴する事態となった(村長らは結局、免訴)。24年3月、第一審・東京控訴院は木暮票のうち46票を無資格者の投票と認定し票数逆転で島田勝訴の判決を出した。木暮側は大審院に上告した。すると大審院は原判決に問題ありとして差し戻したため、再度東京控訴院で審理が行われ、9月控訴院は再び島田勝訴の判決を下した。判決は木暮票を415票、島田票を418票と認定し、島田を当選者と判断した。木暮側は再度上告し、25年1月、大審院は控訴院判決を破棄したが、すでに衆議院が24年末に解散となったため訴え自体が棄却されるという異例の結末を迎えたのである。

大審院は、木暮側の自筆かどうかが焦点となった2票について無効票と見なした控訴院の判断と、島田側の1票について有効無効を判定しなかったことを問題視した。つまり木暮票415票に2票が加わる可能性と、島田票418票から1票が無効であれば減る可能性があったので、両者417票で同数となる可能性を指摘したのである。

木暮は議席を奪われることなく第1・第2議会に出席できたが、この訴訟騒動の渦中にいたため、政府による大規模な選挙干渉で知られる第2回総選挙には出ることができなかった(立候補制度ではなかったが木暮には1票も入っていない)。この点について、木暮は「本区も不幸にも多分吏領と化し去り候義、天下政友ニ対し面目無之、深く慙愧いたし候」と自身の選挙区を政府支持派(吏党)に奪われたことを仲間に詫びている(丑木幸男『評伝高津仲次郎』267頁)。

所属としては、第1議会では自由党の院内会派である弥生倶楽部に所属するが、いわゆる「土佐派の裏切り」に同調し、自由倶楽部に移る。その後自由党に復党し、立憲政友会設立後は一貫して政友会に所属した。

議場において木暮の本領が発揮されたのは、議題としては地方制度、商業、選挙法であり、長く配属された予算委員会では税金の無駄遣いを度々鋭く指摘した。木暮が福澤の精神を体現したと思われる例を1つ紹介したい。第1議会では、議員が演説をする際に他の議員が質問をしたり野次を飛ばしたりして妨害するのが目立ち、時間を浪費していた。この状況に対して木暮は、甚だ遺憾であり、議長は演説の妨害を許さないように、従わない場合は議院法や衆議院規則にもとづいて「断然たる御処分」を願いたいと、議長の議事進行に苦言を呈した(「帝国議会会議録」国立国会図書館ホームページ)。初期の議会ゆえに議事進行が混乱し、発言者が時宜をふまえず登場する場面が多くみられた。それを毅然とたしなめた点に「議会の波瀾を静にする」ことを望んだ福澤の影響が見て取れる。

晩年

大正13年、前年秋から腎臓病を患っていた木暮は、「小生病気大に軽快、退院後ハ新緑ニ親み候、政海も引退之考ニ有之候」(前掲『評伝高津仲次郎』604頁)と、町会議員をやめ、完全に政界から引退する決心を固めた。また、「御承知之通り小生は中和性之人物、極端に走り候事ハ嫌候へとも」、「憲政会ハ大嫌ひ、殊ニ加藤之高慢ハ面憎しと平素申居候」(同前)と自らの性格と当時の政界について語っている。極端に走ることを嫌いつつ、筋が通らないことに対しては義憤を感じる硬骨漢だったようだ。国会議員としてはすでに地盤を他の候補に譲っていたが、同年5月の第15回総選挙には後継者として息子・正一が立候補し、当選する。その後、正一は25代武太夫を襲名し、戦後公職追放に遭いながら政界復帰すると参議院議員に転身し運輸大臣まで務めた。

大正15年、木暮死去を報じた『東京朝日新聞』によると、代議士の歳費値上げに憤慨して病状が悪化したという。「上州男子の面目」(『名流列伝』)ここにありと言えるだろう。奇しくも木暮は福澤と同じ66歳で生涯を終えた。なお、伊香保の宿は代々受け継がれ「ホテル木暮」として今も営業している。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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