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【福澤諭吉をめぐる人々】
3人の姉

2016/05/01

左から長姉・礼、次姉・婉、末姉・鐘(慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭、福澤研究センター所員

福澤諭吉は父・百助と母・順の間に生まれ、兄・三之助、3人の姉(礼・婉・鐘)の5人兄弟の末っ子としてかわいがられて育った。福澤自身9人の子どもに恵まれ、子煩悩であったことは広く知られている。それに対して、3人の姉と末っ子・諭吉がどのような関係であったのかはあまり知られていないのではないだろうか。前号の父・百助に続き、今回は3人の姉との関係から福澤の人柄に迫ってみたい。

姉たち

福澤家は諭吉が生まれて1年半後、百助が亡くなったため、赴任地である大阪から郷里・中津に戻った。『福翁自伝』には、大阪の気風に慣れ親しんだ自分たち兄弟5人が中津の風土・言葉・人々に馴染めず、兄弟だけで遊んでいたこと、一度も兄弟喧嘩をしたことがないほど仲が良かったことが語られている。父亡き後母を助け、兄弟で寄り添って暮らしていたことは当然家族の絆を深めただろう。福澤自身も「不幸にして貧苦なるも、苦中却てますます団欒の情を厚うして……安心を存すべし」(『福翁百話』)と言っている。それに加え、母が貧しい人々にも分け隔てなく接するような慈愛の人であったことも、子ども達には良い影響を与えたのではないか。

さて、姉たちの中で、一番上の姉・礼(れい)は文政11年12月11日生まれで諭吉より6歳上であり、次姉・婉(えん)は文政13年10月22日生まれで4歳上、末姉・鐘(かね)は天保3年11月2日生まれで2歳上であった。礼は小田部武右衛門(のち武)と結婚し、三女を産んだ。母と一緒に上京を促す福澤の勧めを断り、終生中津で暮らした。夫の武右衛門は福澤から信頼され、鐘への金銭的支援や中津での諸事連絡を担うことが多かった。婉は中上川才蔵と結婚し、一男(彦次郎)四女を産んだ。彦次郎は諭吉の兄弟の子では唯一の男子であったため、諭吉は特にその将来を期待し、目をかけた。鐘は服部復城と結婚した。母・順(じゅん)の死後、母と同居していた三之助の子・一(いち)を養女として迎えた。一は五女に恵まれた。鐘には他に徳田しほという娘がいたが、事情があって離れて暮らしていた。一としほは同じ年に亡くなり、その後一の長女・順、次女・豊(とよ)を養女とした。

手紙にみる姉弟愛

福澤は自分が家庭をもってからも、姉たちに終生変わらぬ愛情を持ち、できる限りの支援を続けた。このことは、数多く残された手紙に表れている。

上京して塾を開いた福澤は、東西に家族が分かれていることを不経済であり、何かと不便であると考えていた。そのため、明治2年、母や姉たちを上京させ、自分は勉強、妻は家事、そして母に子どもの世話などをしてもらい一家団欒ともに倹約すれば家計も助かるし、母も安心であろうと構想していた。姉のうち礼だけは上京には道中の不安があるとの理由で最後まで反対を貫いた。福澤は説得を重ね、翌年中津まで迎えに行って母と一を上京させた。5年には旧藩主奥平昌邁(まさゆき)一家を上京させるため中津まで迎えに行き、夫を亡くした婉と鐘夫妻もともに上京させ慶應義塾内に引き受けた。

7年3月、福澤は母や姉たちを含め家族親類など30人程で箱根湯治旅行に出かけた。主な目的は肝臓を患っている母の療養であったが、旅行中も具合は良くならず、その後さらに悪化した。福澤は氷を用意するなど世話をしたが、その甲斐なく母・順は5月に亡くなった。19年には母の13回忌法要があり、その段取りを礼と相談した。その際にも中津に戻っていた鐘の様子を聞くことを忘れていない。同じ頃福澤は不幸続きの徳田しほを不憫に思い、小田部武に対して良縁を求めて服部家もしくは小田部家で引き取ることを打診している。その年末には鐘の夫・復城が亡くなり、福澤は残された鐘の身を案じ、礼と一緒に芝居などを楽しみ過ごすことを勧め、経済的なことは安心するよう鐘に伝えた。

21年には、姉3人がそろって関西旅行に出かけたことを福澤は良いことと喜び、自分も暇ならば同道したかったと羨ましく思っていることを伝えている。22年冬には福澤が家族総出で関西旅行に出かけ、当時神戸にいた婉と彦次郎(山陽鉄道勤務)を訪ね、婉は合流して京都まで一緒に旅行をした。福澤はその様子を中津にいる礼と鐘に知らせている。26年には、3月に徳田しほが難産の結果、子どもも本人も亡くなり、さらに4月には、療養していた一が鐘の懸命な看病の甲斐なく亡くなった。福澤は身内の不幸が続いた鐘に、ご看病さぞさぞお疲れのことでしょう、重ね重ねのご心痛をお察しします、といたわる手紙を送っている。

その後、28年頃から婉が腸や胃の病気を患い、翌年夏には湯治のため伊香保温泉に1カ月程滞在した。諭吉は帰京した婉を見舞い、様子を礼に手紙で報告し、「必ず御回復之御事」と伝えた。翌年1月には礼も病気を患い、福澤は双方の心配をしていたが、1月22日、婉は療養の甲斐なく眠るように亡くなった(享年66)。2月、福澤は今一度回復をと望んだ甲斐なくただ残念で、独り淋しく過ごしていると親族に伝えている。同年6月、今度は礼の容体が悪化したため、福澤は心配し婿養子の小田部菊市に病状を何度も詳しく尋ねた。結局、礼は6月19日に永眠した(享年68)。福澤は礼の死去を当日すぐに鐘に伝え、その手紙で胸中を次のように語っている。

「生来ただの一度も兄弟けんかしたこともなく育った兄弟もすでに私たち二人になってしまった。これは誠に淋しいことだけれども、天命なれば致し方ない。」

ここでは「致し方ない」とは書いているが、追伸では、これまで手紙を出すときには小田部・服部姉様と連名で出してきたのに、今後は1人宛になってしまうことに愚痴を申せば際限がない、と書いており、気持ちが落ち込むところを強いて割り切ろうとする心の動きが読み取れる。実際に数日経った手紙では、半年で2人の姉を喪ったことを伝える際、このようなときこそ落胆すべきでないと強いて自ら威張り養生に努めていると書き綴っている。福澤の喪失感はいかばかりであっただろうか。

また、鐘は夫の死後、未亡人生活を長く送っていたため、福澤は不自由させないよう、毎月の生活費を送金していた。この点について福澤は手紙で、父上様、母上様に代わって勤めたことなので遠慮せず、生涯不自由しないよう計らう、と約束しており、最も歳が近く、不幸続きだった鐘への特に深い愛情がうかがえる。それは、福澤が大病から回復した後、初めて書いた自筆書簡が鐘に順調な経過を報告したものであり、さらに、生前最後の自筆書簡も発作から回復し、以前の通りになりましたと鐘に安心させるものであることを考えると、より一層その感を強くする。鐘は明治20年代前半にロシア正教に入信し、ドロヒヤという洗礼名を授けられ敬虔な信者として過ごした。鐘は福澤よりも長生きし、大正2年11月1日、80歳で永眠した。

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