【三人閑談】
江戸の版元
2025/01/08
全国的な狂歌ブーム
津田 蔦重関連のご著書でも書かれていますが、蔦重の周辺では「狂歌」が一大ブームとなりました。所謂天明狂歌(てんめいきょうか)で、一般に社会風刺や皮肉、滑稽を織り込んだなどと言われますが、私には蔦重らが盛り上げたコミュニティとしての華やかさが印象的です。
このブームは、大田南畝(なんぽ)の「四方(よも)」の号を受け継いだ鹿都部真顔(しかつべのまがお)を中心に、19世紀により大きな輪になります。歴史学の分野でも東北大学の高橋章則氏が、19世紀に狂歌のサークルが全国運動として広まっていく諸相を研究していらっしゃいますが、とても興味深い。文学の分野では、名も無き大量な人々が参加したため、歌の質が低下したと、学問的に人気がない時期ですが。
でも、その19世紀。京山の娘が妾奉公していた長州の殿様─幕末の名君毛利敬親の父親は、狂歌界で一般の人と交わって番付に出たり、判者クラスにも昇格したり、地方の狂歌連とも協働しました。福島県で作られた歌碑に大きく名前が出ていたりもします。幕末のことを考えるとなんて平和だろうと。とにかくその人々の狂歌熱、コミュニティがすごいのです。
石村 狂歌は全国区の文化だったのですね。ドラマを作っていると蔦重の時代にばかり目がいくので江戸の中だけでヒットしたものだと思い込んでいました。
津田 蔦重というと、天明狂歌、黄表紙、歌麿に写楽といった浮世絵が注目を浴びますが、こちらの『蔦屋重三郎』の第3章にある、庶民教化や全国展開に向けた蔦重の動向、とても胸が熱いです。
鈴木 天明狂歌も優れた歌が多いのですが、津田さんの言うように全国に裾野が広がって、誰もが狂歌を詠む時代が訪れ、各地で狂歌連ができました。これはこれで、私は江戸時代の達成だろうと思うんです。
この動きの背景には、寛政の終わり頃から本を読める人が増えたことが大きいのです。つまり新しいマーケットが地方に誕生した。「江戸の人たちが格好いいことをやっている!」という感じで狂歌は広がっていきました。
そういう文芸が広がる素地にはリテラシーの向上がありますし、生活上のゆとりが生まれたこともあるでしょう。とくに農村部に文化的な底上げが起こったことは本のマーケットにとって大きかったと思います。
石村 なるほど。
鈴木 そういう読者にとって京山の草双紙はちょうどよかった。とんがった笑いは何もないけれど、安心して読める(笑)。それを受容する層が全国に増えていくことで新しい文化が生まれたのが江戸時代だと思いますよ。
南畝でも松尾芭蕉でもよいのですが、われわれはビッグネームだけで歴史を語ってはいけないと思うんです。むしろ下手くそな作品でも受容する層がいたこと、これこそが文学史を編む肝です。だからこそ誰でも作者になり得るような知の底上げが忽然と起こったと見るべきなのです。
津田 和算、算額の文化もそうですね。お嬢さんたちも一生懸命問題を解いては、額にして神社や仏閣に奉納したりしていました。
蔦重が広げた出版マーケット
石村 全国の農村の人たちが読めるような出版マーケットの拡大は誰が担い手だったのでしょうか。
鈴木 先鞭を付けたのが蔦重だと私は見ています。寛政の改革によって武家の人たちが皆勉強を始めるようになり、地方でもそれに倣って真面目志向になっていきます。教訓的な本の需要が高まる時代がきます。
そこで蔦重は京伝に教訓的な黄表紙をどんどん作らせました。そういう本はもちろん江戸ではウケない。ですが、蔦重は新たに立ち上がりかけているそのマーケットを耕すべく全国にそれを撒いていきます。
一九も馬琴も天明期のセンスに照らすとやはりつまらない。それでも一九が今も名を残すのはわかりやすかったからです。馬琴に至ってはひたすら堅いだけ。それでも蔦重は彼らを抱えて黄表紙を作らせるんですね。
津田 一九はもう少し評価してあげてほしいです(笑)。
鈴木 実際、そうなんです(笑)。
津田 弁護するようですが、尾籠でも一九はちゃんとしているんです。なにしろ、文章が書けて、筆耕(版下書き)も絵も描けた。武士だったので相応に知識もあり、様々なオファーを引き受けられる人でした。
鈴木 そうですね。一九は注文仕事を何でもこなせました。
津田 そう。ですが、彼は吉原で遊びすぎたり、狂歌にのめり込みすぎたりして、経済的な保障として婿養子に入った婚家から追い出されます。その後、筆一本で生計を立てるべくいろいろな本を一生懸命書き、『東海道中膝栗毛』のヒットが生まれました。
その『膝栗毛』も狂歌仲間の支えがあってビッグヒットにつながりました。これにより、今で言う朝ドラの舞台誘致みたいなことがあちこちで起こるんですね。
石村 それは、うちの地域にも弥次さん喜多さんを旅させてくれ、みたいなことですか。
津田 そうです。こういうお題で、この金額を支払うと著名な師匠たちが判定しますというチラシが、地域の狂歌連によって全国的に配布されました。それに対して皆が、本に載りたい、番付に載りたいと応募していた。このシステムはおそらくもともと俳諧や川柳の文化で作られものだと思いますが。
そして弥次さん喜多さんは、おばか(笑)な振る舞いをして歩くわけですが、けれど、宿場で必ず何かくだらないことをやっては狂歌で締める。そういう小咄を狂歌で締める構造は、江戸の初期からある仮名草子の『竹斎』や『東海道道中記』などに使われる文学的伝統です。もっと言えば、『奥の細道』『伊勢物語』にも通じる型です。おばかだけど、文学性が保持されています。
鈴木 いみじくも馬琴が『作者部類』の中で、一九の『膝栗毛』を「村農野嬢」にもわかりやすく滑稽を楽しめると称しています。つまり村の農民やお嬢さんたちが新たな読者として立ち上がってきたことで全国的なヒットになった。これはその20年前では起こりえなかった現象でしょう。それまでのとんがった笑いを江戸だけで享受する閉じた文化が変わっていくのを、仕掛け人だった蔦重は捉えていました。
蔦重の先見の明
石村 蔦重が晩年、松阪に本居宣長を訪ねますが、彼はほとんど江戸から出なかったようなのです。「江戸から動かない人だね」と話していました。実際、ずっと江戸にいた人だったのでしょうか。
鈴木 本居宣長を訪ねる前に日光に行っているはずですが、確認できるのはその2カ所くらいですね。
石村 そんな人がどうして全国に販売網を獲得する発想ができたのか不思議です。
鈴木 出版物の動きや流通を見ていて何か感じていたんでしょうかね。その前の時代に京都の版元は流通網を持っていました。それがどこまで広げていたのかわかりませんが、蔦屋重三郎が世に出ていく時代と出版業の拡大期が重なったのではないでしょうか。天明の黄表紙が持っていたとんがった笑いは全国で売れるようなものではなく、そういう面白さが次第に維持できなくなっていったのだと思います。
津田 近世文芸研究の先達が評価をしなかった、寛政改革以降の京伝が書いた、教訓的な黄表紙も秀逸ですよ。とくに絵が良いのです。表現模倣形式と言われる既存の出版物のパロディをこれでもかとやっています。京伝は視覚的に面白く見せる工夫をたくさんしていたのです。
それは今で言うとEテレ的かもしれません。昔からNHKのEテレは結構攻めた番組作りをしていますよね。
石村 そうですね。確かに京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の艶二郎や『心学早染草(しんがくはやぞめぐざ)』の善玉・悪玉など、面白いですね。
津田 たぶんそれまで黄表紙などで作られたキャラクターとしてヒットした例はあまりないと思うのです。善玉・悪玉の形式はその後、近代まで生き続けることになります。
鈴木 応用も利きますしね。
津田 そもそも黄表紙があれほど自由な書き方をしていたのは出版統制のあり方が大きいのでしょうか。当初は草双紙や、舞台で上演された浄瑠璃の本は、検閲からお目こぼしにあっていたとも聞きます。
これは現代にSNSが炎上するのとも似ていますが、人気が出て注目が集まるとかえって縛りが強くなるのは昔からそうだったのだなという感じがします。
鈴木 草双紙には商いにおける障壁がないんです。同じものを出しても海賊版だと言って咎め立てするほどのものではなかったと思います。
津田 そもそも立派な「物之本」と性質が違うということでしょうか。
鈴木 そうですね。一過性のものでしたから。黄表紙が出るのも1年のうち正月だけ。そんなものを真似しただの何だのと言うのはナンセンスだったのでしょうね。
津田 むしろ皆でわざわざ同じものを作っていたという感じがして面白いですよね。作り手同士もよく知った間柄だったりするわけですから。
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