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【写真に見る戦後の義塾】
神宮外苑と医学部・病院

2022/03/18

病院は1号棟が落成したばかり。1958年竣工の国立競技場の南側には神宮第2球場、神宮球場、秩父宮ラグビー場がみえる(1965年頃)。
医学部100年を機に開始された新病院棟の建設が進められている。新国立競技場の南側には1960年代と変わらぬ風景が続いている(2021年11月)。(赤のラインは信濃町地区敷地を表す)

慶應義塾大学医学部・病院のある信濃町周辺は、東西に走るJR中央・総武線によって南北に分けられ、医学部は北側に位置する。南側は神宮外苑で、絵画館や国立競技場がある。青山練兵場跡に明治神宮外苑造営が1919年12月に始められた。

1965、6年頃の写真をみると、「1964年東京オリンピック」の主会場となった国立競技場の手前には神宮プール(1930─2002年)が、また「く」の字に縦に走っている外苑東通りには都電(1906─69年)が走っている。信濃町駅近くの道路には、当時としては珍しい歩道橋(1964年)があり、映画「君の名は。」(新海誠監督)の聖地となっている。

医学部・病院の敷地は陸軍跡地で、現在も「陸軍省所轄地」と記された境界石が外苑東通りに残されている。練兵場との間には3本の橋が架けられていたが、現在は車の通れない「無名橋」が1本残っている。外苑の開発と同年の1919年4月に信濃町での授業が開始されが、開校開院式は病院の完成を待って1920年11月に行われた。その建物は1945年5月24日の空襲でほとんどが焼失したが、幸いなことに200名余の入院患者は無事救出している。戦後いち早く木造の病院で診療を開始し、その後1950年建築の「は」号棟を始めとして、54年までに2号棟、6号棟、7号棟、63年に中央棟、65年に1号棟が完成した。また、医学部では56年から61年に第1校舎、東校舎、第2校舎が建設された。

55年後の2021年の写真でも、街の基本構造は大きくは変わっていないが、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の主会場となった新国立競技場が目立つ。また、医学部・病院以外に大きな建物がなかった時代に比して、周囲に同程度の高さの建物が多く見られる。

2018年竣工の1号館に至るまでに、2号館、3号館、総合医科学研究棟、臨床研究棟の他、孝養舎等が建設され、予防医学校舎、北里図書館、東校舎以外のほとんどの建物が入れ替わっている。今春、すべての改修工事を完了し、病院はグランドオープンを迎える。「慶應醫学」の隆盛発展を象徴しているかのようである。

(慶應義塾大学名誉教授・医学部三四会長 武田純三)

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