【写真に見る戦後の義塾】
昭和30年代の女子高
2021/07/29



私が在学中の昭和36年から38年当時、慶應義塾女子高等学校は昭和26、7年に建てられた2棟の新校舎がありましたが、旧徳川達孝伯爵邸の建物も利用していました。改造された瓦葺き木造校舎は一号館として教員室、事務室のほか音楽室などの特別教室に利用しており、その隣りには図書室の建物がありました。女子高の敷地は戦前に義塾が徳川伯爵から購入したものでした。現在も敷地内に残る門は旧徳川伯爵邸の庭園に使用されていたものだそうで、十三重の石塔と庭園も残っています。当時は3クラスでアットホームな環境で学べました。その後、古い建物は一掃され、昭和49年に現在のコンクリート校舎に建て替えられました。
塾では高校以外は共学とはいえ、当時から女子学生は常に少数で、よく言えばお客様状態、男子から大切にされましたが、一貫校を下から上がっていた私にとって女子高は女性だけでのびのびとしていて在学中で一番楽しかったように思います。授業中に決めた時間に皆で一斉に後ろを向いたり、決めた日に皆で頭にリボンをつけて登校したりとやんちゃをしたものです。しかし別学とはいえ一貫校でしたから日吉高(塾高)との連携も深く、クラブ活動のために日吉にもよく通いました。また私たちが通っていた前後数年間だけだったそうですが、日吉高と日吉祭を共催したのも青春時代の良き想い出です。当時は現在の十月祭(かんなさい)はありませんでした。今も運動会で棒倒しをするようですが、それは私たちの時代から始まったことです。実に女子高らしいと思います。
この時代、世間の一般的な女子校の制服は紺と決まっていましたが、女子高では私達が入学する直前の昭和34年にグレーのスーツになりました。オーバーコートも黒白のツイードとなり画期的で誇らしく思ったものです。在学中に新しい食堂が完成し、放課後も皆で集まって食べたりおしゃべりをしたりしました。口の悪いS先生が「ここは三田の養豚場だ」などとおっしゃいましたが今はどうでしょうか。
2003年、同期の梅岡淳子さんが校長に就任、女子高初の生え抜き女性校長となりました。
(田中ひろみ・1967経)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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