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【写真に見る戦後の義塾】
昭和30年代、図書館の変革期

2021/06/29

昭和36年4月、正面玄関は学生に開放された。学生証を提示して入館証を受け取る学生。館内静謐を守るため入館人数を制限していた。受付での入館証交付は昭和45年4月の情報センター発足まで続いた。その後は学生証または入庫券提示となった。
昭和32年頃。第三書庫ができる以前の大閲覧室。左手奥には閲覧台があり、閲覧票を出して図書を出納していた。右奥に第三書庫への通路はまだない
一般学生用の入館証
地下入口を入ってすぐの新聞閲覧室
赤丸で示したのが昔の学生の入り口

昭和30年代、丘の上は「窓を開ければ海が見えるよ 朗らかに風は渡るよ渡るよ」と歌われたような時代、筆者が勤めていた明治の煉瓦造りの図書館旧館の入ってすぐ右にあった事務室(現・カフェ)は夏は涼しく冬はスチーム暖房が適度に暖かく働きやすい職場であった。

その入口は2箇所あり、教職員は1階正面玄関、他方学生の入口は玄関左側に階段を数段降りた地下1階受付であった。1階ロビー広場は閑散とした空間で、噂に聞く大理石像「真間の手古奈」は戦災の破損で地下書庫に移され、階段踊場のステンドグラスも同様戦火で破損、透明ガラスにただ空が透けて見えるのみであった。が、東京タワーの工事が完了してみると、偶然ながらガラスの壁中央に程よく収まる事で状況が変わり、「一幅の絵になる」との声も聞こえた。

一方、地階学生口が突如時の話題となった時期がある。事の発端はGHQの指針により、司書育成のため、昭和26年「日本図書館学校」(現文学部図書館・情報学専攻)が義塾に開校し、学科用図書室が玄関入って左側(現福澤研究センター)に置かれたことである。図書館学校の学生の中には便利な玄関口から入館する者もいる。他の学生から不満の声も上がった。この問題処理のため、ギトラー学科主任と図書館伊東弥之助主事が話し合った。その内容を、学生時代ゼミの恩師で「師弟の間に上下の礼あり」が信条の野村兼太郎館長に相談するのは、「実に弱った」とは主事の筆者への後日談である。

しかし、時代は足早に変わりつつあった。特に第三書庫竣工(昭和36年秋)前後を境に、それは加速された。正面玄関の学生への開放、雑誌室や開架書架の新設、図書館学科図書室の西校舎への移転等々。こうした利用サービスの改善により、学生の入館者も目に見えて増加した。入館者が、教職員同様正面玄関を利用するも、それに異を唱える人はもういなかった。

開館以後50年、塾生には馴染みのあの不便な、と思われる地階入口は人知れず閉ざされ、その経緯を知る人も今は稀である。

(元三田メディアセンター調査役 森園 繁)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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