【写真に見る戦後の義塾】
田町駅が地上改札だった頃
2021/05/31




(当初は、跨線橋で芝浦口改札にもつながっていたが、東西を行き来する自由通路は無かった。改札が2階に上がって統合され、自由通路ができたのは1971年2月。1994年10月には三田側の国道15号をまたぐデッキができて人の流れが大きく変わった。2003年2月、東西自由通路の幅は広がり、現在に至る。)
昭和32年当時の田町駅西口を出ると、まず目に飛び込むのは建設中の東京タワーでした。それを横目に見ながら商店街を抜けて、完成したての中等部のモダンな校舎へ登校していました。鉄不足の日本が、朝鮮戦争で使った戦車の廃材も利用した東京タワーは、まるで高度成長のバロメーターの如くに、日に日に高くなるのを校舎のてっぺんからワクワクしながら眺めていました。
清家前塾長が「半学半教」の福澤精神を語られる中に、「中等部では生徒が先生を「さん」付けで呼びますし、教壇がない。生徒と先生が同じ高さで学ぶという慶應義塾の伝統がよく引き継がれています」(「週刊ダイヤモンド」、2016年)と言われましたが、校則も特に無い中等部は人間関係がフラットで男女の別もなく、40代になった私に同窓会長の役目が回ってきました。初仕事は中等部の前身の「慶應義塾商工学校」同窓会への出席でした。その学校が歴史を閉じた年に当時の1、2年生が創成期の中等部の2、3年生となり、担任が池田弥三郎さん、音楽は芥川也寸志さんという中等部の斬新な校風の原点がありました。また商工学校には「三田商店街」の生徒さんも通っていました。
過日、仲通りの入口近くにある「まつや」の木野さんに、当時のことを伺ってみると、駅西口には「雑魚場」と呼ばれた魚市場のような所がありましたが、そこは芝浦側がすぐに東京湾だったので、獲れた魚は電車の線路の下をくぐって西口側の船着き場に運ばれ、売られていたとのことで、私のおぼろ気な記憶が確認できました。木野さん達の子供時代は、「雑魚場」から三田の山、綱町一帯はすべて遊び場だったそうです。その綱町グラウンドには弓術部の道場があり、私が部員だった当時は女子の更衣室がなく、高村象平塾長の運転手さんのお住まいの一隅をお借りして毎日、袴に着替えていました。ここでもう1つ「慶應仲通り商店街」を入ってすぐ脇にあった何故か心惹かれる存在感の小さな祠のことに触れましょう。それは火伏せの神をお祀りした「茶ノ木稲荷神社」です。商店街の皆さんが大事にお守りしていたおかげで、東京大空襲でも慶應義塾を含む一帯は焼かれずに残ったのだそうです。この有難いお稲荷さんは2019年、仲通りの巌流稲荷社に合祀され、今でも「守護神」として田町界隈をずっと見守り続けてくれています。私も久しぶりに手を合わせて、空襲当時のお礼と、母校の益々の発展を祈ってまいりました。
(1966年三田会会長 吉岡和子)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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