三田評論ONLINE

【写真に見る戦後の義塾】
平沼亮三胸像と喜寿祝賀会

2021/04/26

1955年5月29日の胸像除幕式、雨中の日吉競技場を行進する体育会学生。
除幕する孫の紀子さん。
行進を見守る平沼。その後ろに石丸重治体育会理事。左に潮田江次塾長
除幕式後、日吉50番教室で開かれた祝賀会。中央に小泉信三元塾長。右端に潮田塾長。
2月26日の神田国民体育館での祝賀会。この日、代表発起人の潮田塾長から贈呈された白のブレザーを着て、秩父宮妃殿下より首飾りを受ける。

市民スポーツの父であり、塾体育会の育ての親とも言われる平沼亮三(1879~1959)。福澤門下の平沼は、大学時代野球部に属し4番サードを務めた。そのほかにも柔道、剣道、テニス、器械体操など実に26種目ものスポーツを手掛けた万能選手で、「スポーツのデパートメントストア」とも評された。1938(昭和13)年、還暦の際には、神宮外苑で「還暦祝賀競技」なるものが行われ、赤いチャンチャンコ代わりに贈られた運動シャツを身につけた本人が100メートルを15秒フラットで走ったという話も残されている。

塾内の日吉キャンパス陸上競技場には平沼の胸像が建っている(元々メインスタンド側に建てられた胸像は、2008年の義塾150年に伴う日吉競技場の改修の際に、バックスタンド側に移設された)。建てられたのは1955年。平沼の喜寿を祝してのことだ。

1955年5月29日、胸像除幕式を兼ねた喜寿祝賀会が日吉キャンパスで開催された。あいにくの強い雨の日となったが、「体育会月報」の報告記事によれば、「10時30分から体育会旗を先頭に柔道、剣道と体育会入部順に31部と、特別に参加した應援指導部計1700名の選手部員はユニフォーム姿或は制服で横浜市役所ブラスバンドの奏楽で勇壮な行進を開始した」という壮麗なものだった。後述の2月の祝賀会で、潮田江次塾長から贈られた白のブレザーを着た平沼は雨中、台上に立ち祝福を受け、行進終了後、孫の紀子さんの手によって像が除幕された。

塾での催しに先立つ同年2月26日、日本体育協会、日本陸上競技連盟、東京六大学野球連盟等、平沼が世話した実に11スポーツ団体700余名が発起人となり、喜寿祝賀会は神田国民体育館でも行われていた。この際、芸術院会員の吉田三郎氏制作の胸像が平沼に贈呈された。この胸像が平沼から塾体育会に寄贈され、日吉陸上競技場に建つことになったという経緯である。同年11月には平沼は、スポーツ関係者としてはじめて文化勲章を受章した。

まさに「スポーツの申し子」(小泉信三)と言うべき平沼大先輩は、今も日吉の地で、日切磋琢磨する義塾体育会部員を静かに見守っている。

(慶應義塾体育会理事、法学部教授 山本信人)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事