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【写真に見る戦後の義塾】
昭和30年代の塾高北海道修学旅行

2021/03/29

函館山展望台にて(昭和30年代半ば)
函館山展望台にて(昭和47年)
全18クラス同時実施時代の各バス会社のバスが並ぶ圧巻の光景(阿寒表口にて)
当時、3年生は北海道へ行ったが、2年生、1年生の修学旅行もそれぞれ行われていた。(昭和新山にて)

齢60を過ぎて慶應義塾高校の同級生と会うと、出る話は大概3年生の北海道修学旅行の武勇伝・・・である。修学旅行は学校開設5年目の昭和27(1952)年から始められ、各自が時期と旅行先を選ぶ選択旅行に形態を変える平成10(1998)年まで約半世紀実施された。生徒なら1回だけの参加だが、教員になった筆者は更に8回の北海道修学旅行に参加した。そのため、同級生だけでなく、教え子達とも想い出を語り合えることになった。またもちろん「俺たちの頃はなぁ」と語る先輩方とも共通の話題となり、一瞬にして打ち解ける塾高卒業生のアイデンティティーのようなものなのであった。

大先輩方に絶対に勝てない想い出は、昭和37年まで続けられていた、全クラス一緒の移動である。鉄路は国鉄の貸し切り専用列車を仕立て、バスは本部車予備車を含めた、各バス会社からかき集めた20台にも及ぶ大旅行団での移動だったのである。さぞかし爽快な眺めであったことだろう。

筆者は青函連絡船、青函トンネル、そして飛行機と北海道に向かう交通手段を様々経験したが、どれにも共通したのは函館観光であった。昭和30年代半ば以降は函館山展望台に立ち寄り、市街やイカ釣り船を背景にした記念写真を撮ることが定番となった。昭和47年は筆者が生徒として参加した年である。担任の田部敏先生、本部員の柴田利雄先生が両脇に、そして後列には筆者が写っている想い出深い写真である。寝台列車で青森に着き、青函連絡船で初めて北海道に足を踏み入れてすぐの集合写真である。この後、とんでもないことが起こるとは思ってもいなかった。旅行委員の筆者は同級生である6年生・・・のK先輩の僕(しもべ)であった。「点呼よろしく」の一声とともに宿からタクシーで脱走した先輩の帰りを待って、眠れぬ夜を過ごさねばならなかったのである。旅行後には、宿に入る前に瓶を買って制服の下に仕込んだとか、帰りの寝台列車の窓から缶を投げ捨てたとか、旅行委員の与(あず)かり知らぬ武勇伝を聞かされた。似たような話は時を経て、担任の目を盗んで悪戯を重ねたと告解する、すでにオッサンとなった元教え子から聞かされたものである。塾高卒業生の最大の想い出となっている修学旅行は、今は行われていない。至極残念なことである。

(慶應義塾名誉教諭 石川俊一郎)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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