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【写真に見る戦後の義塾】
1960年代の日吉

2021/02/24

旧第三校舎と低地のかまぼこ兵舎を使用した購買部等があった。奥から谷本靴店、プレイガイド。(1960年代撮影)
正面から見た旧第三校舎。1953年9月、谷口吉郎設計により竣工。大小教室を持つ。1962年に小教室は学生団体に開放され、部室として使われるようになった。1988年に取り壊された。(1975年頃撮影)
日吉キャンパス最後の木造校舎(左が80番教室、右は81,82,83番教室)。1949年に第四校舎の北側に建てられた91,92番教室を1961年に移築したもの。1993年3月に現第三校舎新築のため解体された。(1980年頃撮影)

日吉のキャンパスといえば、いつもきまって蘇ってくる風景があります。駅前から記念館に真っ直ぐ延びる銀杏並木とその左に並ぶ背の低い日吉事務室と学生部の2棟のかまぼこ校舎です。いまその跡地に図書館が建つ。二幸食堂、グリーン・ハウスが並んでいた場所は、「来往舎」と称する堂々たる建物に変わっています。私の学生時代は、第四校舎がいちばん大きな建物で、大小の教室が並び、教務課や教員室もこの建物の中にありました。この辺りがわれわれ学生の行動範囲で、時折、授業の空いた時間に、まむし谷の急坂を下りて行き、テニスの練習など見て過ごしたものです。練習を終えた選手たちは、日頃、運動部に対して抱く印象とは違ってマナーの良い、折目正しい人たちで、意外に思うと同時に学校の雰囲気を感じたものでした。ところがこの静かな雰囲気も1960年以降の相次ぐ政治的な事件に掻き乱されます。

日米安保条約の改定案阻止の動き。東大闘争から東大・安田講堂占拠事件。そして69年、沖縄返還交渉に向かう佐藤栄作首相の出国を阻止しようとするデモ。70年にも安保条約の「自動延長」を廃案に追い込もうとする動きがありました。政治問題が僅か10年のうちに相次いだのです。こうした混乱は全共闘や新左翼の過激な行動と相俟って全国の大学に波及し、とりわけ69年11月の佐藤栄作首相訪米時のデモは激しく、日吉でも銀杏並木の下では激しいジグザグ・デモが繰り返されました。デモの先頭に経済学部の大島通義さんの姿を見かけたのもこの時です。セクト同士のゲバから学生を護りたいというお気持だったのでしょう。当時としてはかなり勇気の要ることでした。しかし、活動家の動きもこの頃がピークで、70年安保条約の「自動延長」問題では大規模なデモにも拘らず、あっさり延長が決まりました。過激な学生運動はすでに社会の支持を失っていたのです。

昨年12月、久し振りに日吉を訪ねました。この日は曇天でしたが、時折り顔を見せる陽の光に銀杏の葉は真黄色に輝いて見えました。ギンナンの実を拾う女性の姿も昔のままの風景で、久し振りに静かな日吉の雰囲気を味わって帰ってきました。

(慶應義塾大学名誉教授 黒岩 純一 (くろいわ じゅんいち))

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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