三田評論ONLINE

【写真に見る戦後の義塾】
信濃町1号棟竣工

2021/01/27

くの字型の1号棟竣工(1965年4月)。1階は駐車場で紅白の幕がみえる。3-5階は病室階で、3,4階は準二等、二等病室、5階は一等病室、特別病室が置かれた。病室階には、建設費を援助した篤志家の銘板がつけられた。
1階受付風景。右奥にはエスカレーターがみえる
1965年4月17日の落成式の日
玄関を入ると2階診察室へのエスカレーターがあった

日吉の医学部進学課程から、昭和39(1964)年春に進学した医学部専門課程の信濃町に新築中の巨大な慶應病院があった。これを見て、私は「医学生」となった実感を初めて味わった。昭和39年秋の東京オリンピック開会式では、完成間近の1号棟上空に自衛隊機が五輪を描くのを、病院裏手の解剖学教室から眺めたことを覚えている。

翌年4月の1号棟開設は大イベントで、慶應病院での臨床実習が始まる医学生も興味津々だった。初診患者が最も多い病院と言われていた慶應病院の初診受付は、正面の3階建てビルの1階に、当時としては、極めて機能的な受付が登場した。受付を済ませた患者が2階にある診察室に移動するエスカレータも話題となった。外来にエスカレータのある病院は、当時は珍しかった。

5階建ての1号棟も当時最新の病棟であった。3~5階は病室で、当時としては異例の「全て個室」の病棟として話題となった。特に最上階の5階病棟には、石原裕次郎さんをはじめ多くの著名人が入院した。

2007年には、当時の安倍総理が緊急入院された。総理の病室内には、治療用の部屋に加えて、数人の会議ができる部屋など複数の部屋と、浴室、キッチンが付属しており、総理は入院中も病室で公務を続けておられた。入院10日後に記者会見を開き、総理が辞任の意向を公表、その後、福田総理が選出されるまで、1号棟5階が内閣官房の機能の一部を果たしていた。当時、私は病院長として総理の入院に対応していたが、建設から40年以上経っていた1号棟5階の個室病室群が、政府の中枢機能の一部を一時的に担うことができたことを誇りに思っている。

慶應病院はJRの駅から一番近い大学病院でもある。信濃町駅の改札を出て信号を渡れば病院正門で、電車での通院患者も多い。それにもかかわらず、1階に駐車場スペースが設けれ、玄関前には、現在まで広大な駐車場スペースがある。1号棟は本年夏には解体されその姿を見られなくなるが、慶應病院の中枢的機能を半世紀以上に亘り担ってきた1号棟を忘れてはならない。

(慶應義塾大学名誉教授、元大学病院長 相川直樹(あいかわなおき))

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事