【写真に見る戦後の義塾】
第三研究室
2020/11/30




1960年代前半の三田山上には、第一、第二、第三の3棟の研究室があった。第一研究室は、助教授、専任講師、助手の教員。第二研究室には、著名な教授方の部屋が少なくなかった。文学部では考古学の清水潤三教授が2階の南の奥だったと記憶する。僕はそこで義塾所蔵の国宝「秋草文壺」を拝見した。壺は粗末な鉄のロッカーに納められており、その後、保存に万全を期すため東京国立博物館に寄託されたと聞いた。
第三研究室には、文学部の教授が多くおられたようで、大学院入試の面接や、大学院生になってからは講義をそこで受けた。三研の東側は、薔薇などの花木の花の咲く庭が低いフェンスで囲まれ、西側には大小の樹木の植え込みがあった。その西の端の辺りには、世界的に高名な日系アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチによるブロンズ像「若い人」が、同じノグチのデザインする二研談話室の室内、さらに庭に配された「無」と「学生」と題される彫刻と一体化するように計画的に創られた、作家独自の空間を含む造形としてそこに据えられていた。この植え込みの北側には樹木の植えられていないところがあり、三田祭の折には、僕の属していたクラブが資金獲得のために楽焼の店を開いて荒稼ぎをした。ただ必ずしもそれは楽な仕事ではなく、絵付けをしてもらった作品を仕上げるのに数日徹夜が続いた。
その思い出の場所に1964年8月、歌舞伎座別館にあった、劇作家で義塾の文学部で演劇論を講じた小山内薫(1881〜1928)の胸像が移築、設置された。小山内は、歌舞伎役者の市川左團次と自由劇場を、土方与志と築地小劇場を設立。日本近代演劇の基礎を築いた人だ。
現在、キャンパスの北に位置する研究室は、一研と第三校舎の跡地に立つ。僕は1969年に文学部の助手に採用され、2階に部屋を与えられたが、学生運動の激しい時期で、すぐに学生によって占拠された。解放後の研究室は、ごみ溜めのごとく乱雑を極め、ここに寝泊まりし、革命を論じ乱交が重ねられたのかと思うと、結末の見えた感じがして悲しかった。
新研が建つと三研のあとには大学院棟が、そして、谷口吉郎の戦後モダニズム建築の代表作と評価の高い二研が壊され南館が新築されると、義塾が戦後の非常に困難な時期に、自由な学びの庭として建設された、三田山上の革新的な歴史的校舎や研究室の全ては消滅した。
(慶應義塾大学名誉教授 河合 正朝(かわい まさとも))
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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