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【写真に見る戦後の義塾】
旧体育会本部

2020/09/10

正面から見た旧体育会本部(松本大輔氏提供)【昭和30年代とみられる】
(左)旧体育会本部【1980年撮影】、(右)以前と同じ西門脇に建つ1993年3月竣工の西館
現在西門は三田キャンパスの車両入口となっている

旧体育会本部の建物ができたのは昭和27(1952)年である。『体育会年表(創立85周年記念)』や体育会諸先輩方からお借りした資料等によれば、大正6(1917)年、三田山上の寄宿舎の一部に置かれていた体育会本部がヴィッカース・ホール(理財科主任教師ヴィッカース氏の名前を冠した木造洋館)に移り、昭和20(1945)年に木造家屋疎開で取り壊されるまで、戦前戦中を通して20数年間はここに体育会本部(体育会ホールとも呼ばれる)があったとのことである(戦時中、一時日吉の合宿所に体育会の看板を掛けていたこともあった)。

その後、体育会本部の再興のため、昭和23(1948)年の木造平屋建て20坪の仮建築を経て、昭和27年にようやく木造2階建て延べ床面積89坪の旧体育会本部が完成した。この旧体育会本部は、会議室、主事室、女子部員室等14室のほか、浴室、湯沸室、倉庫等もあった。2階には図書館(会議室?)もあり、時代により異なるが、昭和45、6年頃は管理人が住まわれていたとの話もある。体育会事務室は塾監局1階にあった。

現在の本部が入る建物(西館。1階は体育会本部、2階は体育会事務室や資料室)ができたのが平成5(1993)年であるから、40年以上の長きにわたって、体育会各部、そして体育会本部員の数々の困難や喜びと共に、あの三田山上の一角にあり続けたこととなる。私が在学していた昭和40年代半ば、学生運動で大学がロックアウトされることもあったが、その中でも粛々と本部活動がなされていたと聞くと、学問の府としての慶應義塾の体育会のあるべき姿が貫かれていたと思わざるを得ない。

新旧の写真を見たとき、新本部棟で長い間体育会理事の職にあったにもかかわらず、旧本部棟の姿の方が私の心の中にしっくりと入ってくる。私にとって、学生時代から教員時代の長い年月の間、あの裏門(西門)から通学・通勤していた個人的理由なのかも知れない。

(謝辞:木川静雄氏からは戦前・戦中・戦後の体育会本部についての貴重な資料をお借りし、新谷亮介氏、八幡徹氏、そして近藤泰三氏からは驚くほど詳細な当時の記憶の伝聞を受け、松本大輔氏からは貴重な当時の写真の提供を受けました。記して感謝の意を表したい。)

(慶應義塾大学名誉教授、元体育会理事 宮島 司)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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