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【写真に見る戦後の義塾】
農業高校時代の志木高

2020/05/27

1951(昭和26)年撮影
2002(平成14)年撮影

1964(昭和39)年、敷地内を通る県道計画のため西側(本館を含む写 真左側)の校地約1万坪を売却。その後、1968(昭和43)年、新校舎が竣工した。
  • 大舘 信(おおだて まこと)

    慶應志木会副会長、ラテン打楽器奏者

写真右上に見える塾宅群の一番奥の右側が私の生家です(現志木高体育館付近)。その家は慶應義塾農業高等学校創設に携わり、後の志木高校でも教鞭をとっていた父(故大舘清次)に貸与されていた塾宅でした。この写真は私が生まれる以前、1951(昭和26)年の空撮写真です。東邦産業研究所から譲り受けた施設だったため、工場作業場跡や変電室を上手く利用した校内であり、正面の三角屋根の立派な本館(現志木大陸橋下コンビニエンスストア付近)が特徴的でした。グラウンド左の戸建ての建物も1つ1つがホームルームに割り当てられています。

私が生まれた頃には既に普通高校になっていましたが、農芸の授業があったため、農業高校時代の牛馬豚鶏の家畜舎と広い農場は残っておりました。鶏豚家畜舎(元有隣寮付近)、牛馬放牧場(現去来舎陽光舎付近)、農場(現グラウンド)にそれぞれの管理職員の方々が家族で住まわれ、1つの村落を形成しており、新鮮な卵や牛乳や野菜が供給されていました。塾宅各家には電話がない時代でしたので本館前の守衛室に着信すると、夜間でも守衛さんが徒歩で知らせに来てくれたことを憶えています。外塀もありませんでしたから近所の方々も近道である校内導線を通って志木の街や駅方面に出掛けるといった、何とものんびりとした懐かしい昭和の風景です。

塾宅や近所の子供達(志木高生からは志木ガキと総称されました)の格好の遊び場でもあった自然豊かな校内には、春は蓬(よもぎ)、野蒜(のびる)、秋には柿や山栗が豊富に実り、よく収穫したものでした。柿の木だけは今もキャンパスに残り、秋には沢山の実を付けてくれています。敷地内には、野火止用水が流れ、蛍が飛び交い、落差のある所ではかつて水車が回っていたという小さな滝もありました。その後、有隣寮、高翔寮が建設され(現志木ガーデンヒルズ)、私の家も寮の前の舎監住宅に移りました。そして52年前、現キャンパスの竣工に伴い、農高時代の建物はなくなり敷地も半分程度になりました。今も残る当時の柿の木や樹木を見ながら、かつてここに、牧場や農場とともに、慶應義塾農業高等学校が存在したことを感じて頂ければ嬉しく思います。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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