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【写真に見る戦後の義塾】
1960年代の日吉記念館

2020/03/13

高村象平塾長(1964年入学式)
東京プリンスホテル駐車場での園遊会(1964年)
式典の中継を学生食堂で見る保護者
高村塾長の後ろでカメラを構える千種義人経済学部教授(1964年卒業式)
  • 唐木 圀和(からき くにかず)

    慶應義塾大学名誉教授

昭和33(1958)年秋、義塾創立百周年を記念する日吉記念館が落成した。面積6千㎡、収容人員約6,500人。館内での初の卒業式が翌34年3月、入学式は同年4月に挙行された。

私は、この入学式に新入生として参列した。奥井復太郎元塾長の長身痩躯にして謹厳な御姿に大学を感じ、記念館に響き渡る塾歌の荘重な調べに乗って、歌詞が「生きんかな この丘に 高く新たに生きんかな」の箇所に至るや感動は頂点に達し、慶應義塾での日々を大切に生きようと決意したのであった。

昭和35(1960)年は、戦後日本の転換点であったと言えよう。戦争への懸念と民主主義擁護のために展開された日米安保条約の改定反対運動は、6月に新条約が発効し、岸首相が辞意を表明すると急速に鎮まった。7月に池田内閣が成立し、12月に「国民所得倍増計画」を正式決定するや、国民はこぞって高度経済成長に邁進した。来るべき産業化社会に備えて、義塾はすでに商学部を新設し、昭和32年4月に第1期生を迎えていた。

昭和38年3月の卒業式では、圧倒的に多い学生服姿の最前列に紅一点、表彰学生に選ばれた商学部女子学生の振袖姿が注目を集めた。当時、文学部以外への女子進学率が極めて低いなかでの快挙は、大卒女性の社会進出の多様化を予感させた。爾来30年を経て、壇上者の1人として式場を見渡すと、スーツ、学生服、袴姿など男女混在した装いとなっていた。

日吉記念館は、式典のほか、体育の授業、対外試合や練習、三田祭前夜祭、連合三田会、卒業生招待会などに活用され、社中の老若男女それぞれの思い出の場となってきた。

この3月、新しい日吉記念館が落成する。総面積は旧館の約2倍である。新館初の卒業式における、長谷山彰塾長の力強い祝辞を胸に刻み、卒業生はそれぞれの道での歩みを始める。

「往かんかな この道を 遠く遥けく往かんかな」 ──卒業生諸君の充実した人生、そして慶應義塾の弥栄を、祈ってやまない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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