【写真に見る戦後の義塾】
独立館以前──2000年の日吉遠景
2020/01/28



日吉キャンパスの綱島街道沿いに、日吉教員の研究室があった。日吉駅を降り、綱島街道を渡り、守衛室のすぐ横の小道に入って階段をのぼってトコトコ歩いていくと、まさに駅から最短距離で自室にたどり着くことができた。私はそこで30年近く過ごした。
研究室は建てられた順に「旧研」、「新研」、さらに教員の数が増えるに従い、1981年、新しく赤いレンガ造りの建物が増築され、通称「新・新研」と呼ばれた。ウナギの寝床のように細長い研究室棟が、外国語教員を中心に教養課程科目を担当する教員の居場所となった。旧研から新・新研に移ったときは、1部屋を2人で使うとはいえ若干広くなり、少々豊かな気持ちになったものである。移動してからしばらくして、都内のカトリック系の大学に勤務するドイツ人の先生が訪ねてきたことがある。研究室に案内すると、今どきこんなに貧相な研究室があるのかと言われ、驚いた。比較状態に置かれると、人は不満のない世界から一気に不幸のどん底に落ちることがある。
たしかに2人が居住するには手狭な研究室である。西側にある部屋は西日がまともに当たり、夏は40度近くにもなる。綱島街道沿いの喧噪のために窓が開けられない。冷房設備は予算の関係で後回しにされ、過酷な状況が続いた。その姿を見た当時の日吉担当理事が、見かねて秋葉原で家庭用の安いクーラーを見つけ、多量に購入してその場をしのぐというあり様だった。ただそうした中でも研究室の前には小さな庭があり、季節になると池の周りに梅や藤の花が美しく咲き、心が潤った。研究室の入り口を入ると受付とロビーがあり、そこが自然に教員のたまり場になっていた。受付のおばさんが、あまり味の出ない「塾茶」をじょうずに入れてくれ、専門の異なる先生がたとも親しく話をすることができた。
2002年、日吉キャンパスのど真ん中に巨大な研究室棟「来往舎」が建てられた。贅沢この上もない建物だが、稼働し始めると教員はそのまま自室に向かうため、教員同士の接点が少なくなってしまった。返すがえすも残念である。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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大谷 弘道(おおたに こうどう)
慶應義塾大学名誉教授