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【写真に見る戦後の義塾】
変わりゆく信濃町──1980年代末

2019/11/27

左に学生ホール、右は竣工間もない看護短期大学校舎。奥に食養研究所。
看護婦寄宿舎(東寮)と外苑東通りの「信濃町駅前」バス停
取り壊し中の看護婦寄宿舎
右に食養研究所、奥に学生ホール。看護婦寄宿舎はすでにない。
  • 猿田 享男

    慶應義塾大学名誉教授、元医学部長、常任理事

信濃町にキャンパスを置く医学部は、2017年、開設100年を迎え、その記念事業の柱である1号館「新病院棟」が翌年開院し、キャンパスの全貌が大きく変化した。今回の新病院棟の開院前、1980年代の終わり頃より、看護短期大学の開設のための校舎(孝養舎)の建設(1988年)、総合医科学研究棟の建設(2001年)等があったが、その中でも信濃町に来られた皆様方が気付かれていたのが、医学部・病院の正門のある表通りの景観の変化ではないかと思われる。

信濃町の医学部・病院の正門に連なる表通り(外苑東通り)には、1926年に財界人の方々の御厚意で、栄養増進、食事療法およびビタミン等の研究のために設立された食養研究所、同年に作られた学生ホール(旧三四会館)、1922年建設の看護婦寄宿舎があった。

食養研究所は、第2次世界大戦の戦禍を免れ、ここで大学の研究の灯が守られてきた。研究施設の乏しかった医学部では、老朽化した建物であっても中央検査室や内科系診療科の研究室として使用してきた。しかし、その老朽化が一層ひどくなり、1990年にその幕を閉じた。その跡地は第一生命株式会社に貸与され、現在は信濃町煉瓦館と名付けられ、多くの企業により利用されている。慶應関連では、戸山芳昭元常任理事が現在理事長である一般社団法人国際医学情報センターがここで事業を行っている。この食養研究所の跡地の貸出しの収益と文部科学省の学術フロンティア資金の支援を受けて信濃町キャンパス中央に、総合医科学研究棟が設立された。

キャンパス内に1953年に南寮、1954年に中央寮が建設されていたので、看護婦寄宿舎(東寮)は、同時期に食養研究所とともに解体されている(1988年12月)。また看護婦寄宿舎と東門の間にあった、医学部生の憩いの場、学生ホールも解体され、この3つの建物の跡地に煉瓦館が現在のように建つことになったのだ。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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