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【写真に見る戦後の義塾】
初めての学校林造林

2019/07/22

1968年6月8日、那須伊王野で初の植林が行われ、造林完了祝賀会も開催された
  • 長島 昭

    慶應義塾大学名誉教授

慶應義塾の学校林を訪れると素晴らしい木々が育っているのを見ることができる。この学校林のできた背景には、半世紀以上前の慶應義塾の苦しい歴史が秘められている。

第2次大戦後の慶應義塾は厳しい財政難と塾運営方針の混乱で苦境にあり、高村象平塾長はこの真っただ中で揉まれていた。戦災で壊滅したキャンパスの復興資金不足には、学生数を増やすか学費値上げしか方法がなかった。しかし全国の大学に先駆けて慶應で学費闘争が起こり、高村塾長が学生団交で閉じ込められた。また筆者が小金井工学部から言われて塾長選挙制度を決める委員会に出てみると、三田の大教室で大声の激論が飛び交っていて仰天した。やがて選出された永沢邦男塾長は、慶應義塾の長期方針を審議する全塾の委員会を発足させた。佐藤朔委員長と共に合宿審議していたら、突然夜になって永沢塾長が来られ、その強い危機意識を感じさせられた。

慶應義塾は塾債の発行などによってどうにか危機を切り抜けたが、高村前塾長は塾財政を長期的に安定させる方策の1つとしてかねて考えていた学校林造成に着手した。そのために結成された林業三田会と、林野庁や地元関係者の熱心な協力により、昭和40年に財団法人福澤記念育林会が認可され、福澤基金の援助も受けて最初の植林が那須伊王野で行われた。この写真にはその関係者の喜びがあふれている。高村前塾長は育林会の理事長を引き受け、いずれ50年後には1.5億円の貢献をしたいと期待を語った。

しかし慶應義塾の財政がどうにか危機を脱すると、育林事業は忘れられた。高村理事長は30年近くにわたって育林事業の心配をし続け、林業三田会が献身的に慶應の森を守った。国有林に慶應の木を植える最初の方式のほか、宮城県の志津川には広い塾有林も得た。

昭和から平成に変わり、学校林の役割として環境保護や教育貢献が見直され、塾員からの寄贈も受けて再び慶應義塾の森は増えていった。育林友の会も結成され、塾当局や林業三田会と共に塾有林を守っている。現在、東北から西日本まで160ヘクタールの地に慶應の美しい森林が広がっている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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