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【写真に見る戦後の義塾】
塾監局第三会議室での評議員会

2019/06/26

第三会議室での佐藤朔塾長時代の評議員会。灰皿と扇風機が時代を表している。(1970年7月20日)
図書館改装後、初の評議員会。(1983年1月20日)
その後、会場レイアウトは教室形式となった。なお図書館改修工事に伴い、現在は東館に会場を移している。(1997年7月21日)
  • 大島 通義

    慶應義塾大学名誉教授

三田の山上で大きな会議室といえば、塾監局3階にある第三会議室と、図書館旧館2階の大会議室である。いずれも趣のある部屋で、後者は、新図書館ができるまでは、大閲覧室だった。学部生だった頃、あそこで使った堅い木の椅子の感触は、まだ微かながら憶えている。

戦後久しいあいだ、三田で「会議室」と言われて頭に浮かぶのは、第三会議室だった。学部の教授会や研究会には、1969年に新研究室棟ができてからは、その中の会議室を使うのが常となった。第三会議室について私の記憶に残っているのは、1959年に塾に初めて労働組合ができ、塾当局との団体交渉があの会議室で開かれるようになった頃のことだ。それは多くの場合、いわゆる大衆団交で、深夜に及んだ。私も組合員のひとりとしてそれに参加していた。当時の慶應には、取り分け雇用の面で戦前からの古い制度や慣行が数多く残っており、例えば「副手(=無給助手)制度」や、その副手が年末に頂く「餅代」もそうだが、校舎や校庭の維持・清掃にあたる職員は「塾僕」と呼ばれていた。これらのことも賃金問題と共に団交の議題とされ、改められた。われわれは当時、「これは慶應の『近代化』革命だ」などと言って悦に入っていたものである。

1977年からは、今度は、私が組合との団体交渉で攻められる役回りとなった。石川忠雄塾長のもとで81年まで、常任理事として経理と労務を担当したためである。したがって第三会議室は、団体交渉のみならず評議員会の会場としても懐かしい空間となった。どちらが私にとって大変だったかと言えば、後者だろう。この場合、評議員の多くが企業経営の経験豊かな方々であり、その方々を相手に、企業会計とはかなり仕組みのことなる「学校法人会計基準」によっている義塾の経理状況を正確に、かつ誤解を招かないように説明するのは、少なからず気をつかう仕事だった。その最初の報告を終わって閉会となったあとで、経済学部長として列席していた大熊一郎さんから、「まあまあだったよ」と言われて、ホッとしたものである。

その評議員会は、その後1983年から、図書館旧館の大会議室で開催されるようになった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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