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【写真に見る戦後の義塾】
福澤先生ご命日の常光寺墓参

2019/02/04

一番乗りを目指して深夜に墓参する塾生たち。手には貼紙を用意(1976年)
幼稚舎生も墓参(1967年)
寺の壁に貼られた普通部生の一番乗り(1976年)
  • 相磯 貞和

    慶應義塾大学名誉教授、元普通部長、芝浦工業大学教授

常光寺の門前に立つと、住宅に囲まれたこの地の静けさにいささかの戸惑いさえも感じます。我が国の先達として三田山上で多くの人々に囲まれて日々を過ごされていた福澤先生が、どのようなお気持ちでこの静寂な上大崎のお寺に自らの墓所を選ばれたのか、義塾にご縁をいただいて60年を過ぎた現在でも、私にはそのご心境を推し量りかねます。

普段は人通りも少ないこの常光寺において、かつて年に一度2月3日の深夜から普通部生をはじめ多くの塾生が、先を争って墓参のために並ぶ光景が繰り広げられました。若く血気盛んな学生たちであっても、流石に先生の墓前近くで騒ぐこともなく、貼り紙はエネルギーの発露の1つであったのでしょう。明治34年2月8日に、柩とともに三田山上からこのお寺まで普通部生を先頭に歩んだ参列者たちの先生への思いが、ここに受け継がれてきたのでした。当時は、門下生たちも先生の墓所の周りに葬られており、塾生たちにとってこの日の墓参は、自らが先生の門弟の1人であることを実感できる場となっていました。

昭和52年に福澤家のご意向で墓所を移されるために柩を開けた際には、「福澤先生はあたかもそこに眠っていらっしゃるがごときお姿であった」と、その場に立ち会った私の恩師の三井但夫医学部解剖学教授からお聞きしたことがあります。先生の没後も年に一度の墓前において、塾生たちは、まさにそこにいらっしゃった先生と師弟としての言葉を交わすことができたのでした。

荼毘に付され、ご遺骨が麻布山善福寺に埋葬された後も、ご命日にお参りをする人々は絶えませんが、あの深夜の光景はもう見られません。先生が善福寺に移られるとともに、塾生たちの意識も変わったようです。義塾は「学校法人慶應義塾」として大きな発展を遂げましたが、それと引き換えに、先生から託された社会の先導者としての義塾の役割は、多様な価値観が溢れ混沌とした世界の中で埋没しつつあるように見受けられます。塾員、塾生が、愚直に原点に立ち返り、門下生として先生の思想をしかと学び体現する気概を強く持つことが今、求められています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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