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【写真に見る戦後の義塾】
三田 五号館(第二校舎)

2018/07/26

中庭側から。正面奥が旧南校舎
福澤公園側から。車が走る正門からのスロープは図書館建設にあたり、4.5m東側に移動し、道路幅も2m狭められた。
五号館全景
正面入口
  • 荒井 秀直(あらい ひでなお)

    慶應義塾大学名誉教授

昭和20(1945)年に戦争が終わって4年、甚大な被害を受けた慶應義塾も立ち直りつつありました。三田五号館と学生ホールが昭和24年、ノグチ・ルームのある第二研究室が26年と、三田はようやく私たちが知る姿を現わし始めました。

五号館には1階に外国語学校の事務室、半地下には生協がはいっていました。あとはもっぱら外国語の授業に使われた教室で、2階からは「丘の上」の歌にある「窓を開けば海が見えるよ」の言葉どおり、はるかに東京湾を見ることが出来ましたし、見下ろせば、旧福澤邸跡の福澤公園と、歌にうたわれ、歴史の刻まれた塾を実感できる場所でした。

外国語の授業は英語の池田潔先生はヒルトンの『チップス先生さようなら』、藤井昇先生はパスカルの『パンセ』、ドイツ語の村田碩男先生はシュヴァイツァーの『わが生活と思想より』をテキストにした授業をなさりました。そこには外国語の学習をただ外国語の上達だけを目指したのではなく、人間としての生き方、考え方の根本を探ろうという、教育に対する根本的な姿勢が見られたように思います。

外国語学校は昭和17年、語学研究所の開設に伴い、多くのアジアの言語も学べる外に向かって開かれた学校としてスタートしました。英語の西脇順三郎先生、厨川文夫先生、ドイツ語の関口存男先生など、そのスタッフの豪華さは、今日にいたるまでどこの大学にも見ることができません。それは勿論ずっとあとのことですが、夜の授業が終わってから、先生方は三田の仲通りのお店で一献を傾けられました。いろいろな外国語の先生方が談笑なさるそのお話の豊かさ、教室では経験することのできないすばらしい時間でした。

戦後の塾の復興を見つめながら、研究に教育にそして学生生活に寄り添った五号館もその使命を終え、昭和55年1月に解体され、その跡に図書館新館が建ちました。そこで共に学び共に語り合った者たちも八十路を超えました。「慶應讃歌」は「共にむつみし幾年は、心に長く留まらん」と歌っていますが、五号館は私たちのいつまでも消えることのない新鮮な記憶の中に蘇ってきます。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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