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【写真に見る戦後の義塾】
ノグチ・ルームと国際センター

2018/03/01

ノグチ・ルーム(新萬来舎)。シラク大統領を迎えて(1996年)
第二研究室玄関(1981年)。2階には言語文化研究所、新聞研究所、情報科学研究所研究室があった
第二研究室内にあった国際センター(1965年)

三田山上の建物には、それぞれ建築時の様式の特徴を備えたものが多い。そのためか統一感がないと評する人もいる(『三田評論』2017年8・9月号)。そんな中にあって、三田にも統一感のある校舎の光景が広がった時期があった。戦災からの復興を急ぐ義塾が設計を託した谷口吉郎による一連の校舎、研究室が姿を見せた1950年代だ。それらのうち最後まで残った第二研究室も2004年に姿を消し、今はその面影の一端を南館3階ルーフテラスに偲ぶのみとなっている。

第二研究室1階にあった国際センターは、1964年にそれまでの外事部が発展的に解消して設けられた部署だったが、義塾の外国との交流が活発になるとともに、1980年代にはもっとも繁忙を極める部署の1つとなった。海外からの研究者や留学生を迎えるにあたっての研究・教育態勢の準備、留学生奨学金の選考、滞在住居の確保、入国・滞在関係の書類作成、派遣留学生の選考、塾生や教職員の海外留学に対する支援、海外大学との交流協定締結交渉などの義塾の国際戦略に関連する業務、帰国子女入試や留学生入試等々、「国際」と名のつく活動の業務一切を引き受ける「何でも屋」だった。また、留学生への日本語や日本事情の教育(1990年に別科として日本語・日本文化教育センターが独立)、塾生の留学準備教育なども担った。このようなことから第二研究室は、今は各キャンパスで当たり前となった文化的背景の異なる人々が集う三田山上では唯一の場所となっていた。

第二研究室の談話室部分、谷口吉郎と彫刻家イサム・ノグチとのコラボレーションで生まれた通称ノグチ・ルーム(新萬来舎)は、国内外からの来訪者との懇談や小規模なレセプションの場としてよく使用された。和洋の要素を巧みに取り入れたモダニズムの傑作は、来訪者にとってとくに印象的だったようだ。塾側の応対者が、初対面の来訪者との話の糸口としてこの空間の説明から始めることも度々あった。イサム・ノグチの彫刻「無」を配した庭は、隣の演説館(稲荷山)から続く緑の樹木とともに、三田山上で一種独特の雰囲気をもつ場所だった。

(慶應義塾大学名誉教授・東京立正短期大学学長 工藤教和)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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