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【写真に見る戦後の義塾】
三田正門(南側)が出来た頃

2017/11/01

昭和34(1959)年5月6日、創立100年事業による三田南校舎・西校舎が竣工、落成式が行なわれた。南校舎完成に伴い、新しく南門が設けられ、同時に開通式も行なわれた。中央は奥井復太郎塾長。
昭和31年の三田空撮写真。南門はまだない。戦火を受けた大講堂が痛々しく残っている。(慶應義塾福澤研究センター蔵)

現在、正門(南門)を入ると、左手の守衛所の建屋のさきに稲荷山の森が望まれ演説館も眼に入る。実はこの稲荷山、正門から望むよりも、中等部の正門の少々手前から望むといかにも山があるという感じに眺めることができる。かつて東側の三田通り側に正門があったときには、あの森は三田山上の最も奥まった場所だった。演説館へも何かイベントでもなければ近づかない。山の下には、津国屋を始め戦災を奇しくも免れた数軒の民家がひっそりと軒を寄せ合っていた。そんな感じであった。

正門と南校舎の出現は、この景観を根本から変えてしまった。少々大げさに言えば、三田キャンパスの表と裏がまったく逆転してしまった。三田通りから石畳の急坂を図書館の八角塔を眺めながら、今日一日の可能性をこころに描く余裕がなくなってしまったようにさえ思えた。学生達の見る山上の景観も大きく変わった。また、学生や教職員の山上での動線も大きく変化することとなった。要するに、山上の眺めを大きく変え、校地全体にある種の余裕と華やぎを与えることになった。ピロティーをもった南校舎の姿もこれに貢献しているであろう。時あたかも都内の私立大学(明治や立教など)のいくつかが東京の郊外に新校地を取得して、それぞれ特徴のある郊外型キャンパスといわれるものを展開しはじめた時期とも重なっていた。三田キャンパスのコンセプトを大きく変えてしまうような役割を果たしたといったら言い過ぎであろうか。学園紛争華やかなりしとき、三田山上でも何回も学生の集会がもたれたが、あるとき、正門と南校舎の間の石畳の通路を学生達が立錐の余地無く埋め尽くしたことがあった。すごいことだと思った。事の善し悪しは別として、世の中の情況に大学キャンパスが切れ目無くつながっているような感じを受けたことを未だに忘れない。

戦前、学徒動員で学業半ばにして戦陣に赴かんとする塾生達が、隊列を組んで三色旗を先頭に幻の門をおりてくる姿を写真で見たことがある。彼らの幾人かにとって再びくぐることのないまさに幻の門であったろう。他方、正門前の通路をいっぱいに埋めた塾生はまさにmass としての塾生達なのではなかろうか。

(慶應義塾大学名誉教授 飯田裕康)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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