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【写真に見る戦後の義塾】
奥野信太郎君を偲ぶ会

2017/01/01

挨拶をする石坂洋次郎
井上靖(左)と遠藤周作
左から田邊茂一(紀伊國屋書店創業者)、西脇順三郎、一人おいて佐々木久子(『酒』編集長)

奥野信太郎(明治32~昭和43年)は文学部の中国文学専攻の教授だったが、学者であると同時に、随筆家として、また豊かな中国文学の教養を踏まえた通人として、テレビ出演も多く、軽妙洒脱な話術とその活動範囲の広さ、多方面の交友関係でも知られていた。永井荷風に心酔して21歳で慶應義塾に入学したものの、すでに荷風は退職していて大いに落胆したらしい。大正14年の卒業後、外務省の在華特別研究員などを経て、39歳で予科教授となり、文学部講師も兼任した。その後、文学部教授に昇任、昭和24年には三田文学会の会長となった。まだ教職員の定年制度がなかった時代であったため、没年まで中日比較文学の講義を担当した。

没後3年で開催された偲ぶ会については、当時本誌に文学部教授(中国文学専攻)村松暎が書いている。「先生の会は賑やかに盛大にやらなければならないと私は思っていた。(中略)簡単に実行にうつるわけには行かなかった」と。折りよく久保田万太郎記念資金の委員会で奥野教授の記念出版の話が出て、約1年がかりで『奥野信太郎 著作と回想』(著作抄と回想集の二分冊)が完成をみた。著作抄は江藤淳、沢村三木男、戸板康二が編集にあたり、回想集の編集には、池田弥三郎、白井浩司、村松暎があたった。「偲ぶ会」はこの完成ほやほやの書籍の披露も兼ねて、昭和46年6月28日に新橋第一ホテルにて三田文学主催で行われた。会には学界、文壇、マスコミその他、200名を超す参加があった。はじめに三田文学会会長の石坂洋次郎の挨拶があり、続いて佐藤朔、宮沢俊義、教え子の柴田錬三郎が短いスピーチを行い、奥野夫人のお礼の言葉で、懇親の会となった。その顔ぶれの豪華さは写真にも現れている。

回想集のなかで、予科で共に学んだ石坂は「こと中国文学に関して、大学生のくせにこんな秀才があるものだろうかとひそかに畏敬の念を抱いていた。(中略)奥野君の生き方は(よく学びよく遊ぶ)を地でいったもので、学者の窮屈な環境に閉じこもることを欲しなかったのであろう」と書いた。文学部長の就任を打診されたとき、「そういうことになったらテレビに出られなくなるじゃアありませんか」と断ったというエピソードもある。

(慶應義塾塾監局参事 石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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