三田評論ONLINE

【その他】
【From Keio Museums】小画面に広がる叙事詩の世界

2026/01/21

ハンス・ゼーバルト・ベーハム《アキレウスとヘクトール》
1518-30年頃 エングレーヴィング タテ28mmxヨコ84mm
所蔵:慶應義塾

馬に乗った2人の戦士が、棍棒を持ち戦う歩兵たちの中を颯爽と駆け抜け、対峙している。まさに今激突せんとするこの2人は、ヨーロッパ文学最古の大古典たる二大叙事詩の1つ『イーリアス』の英雄アキレウスとヘクトールである。

左手から向かうのがギリシアの猛将アキレウス、右手がトロイアの総大将ヘクトールである。アキレウスが胸に抱くのは、盟友パトロクロスの仇であるヘクトールをなんとしても討つ、という激しい復讐の決意であるのに対し、トロイアの守り手たるヘクトールは、国民と家族たちの命運をその双肩に担っている。『イーリアス』の物語の中では、最強の英雄を前に、身を挺し戦い抜いて戦士としての誇りを貫くか、和解を申し出て国を守るかという迷いがヘクトールの中に去来するさまがうたわれている。

この絵では、顔をあげて相手を見据えるヘクトールに対して、アキレウスの顔は馬の首に隠され、その表情を窺うことはできない。しかし両者の乗る馬の様子に目を向けると、アキレウスの馬が前を睨みつけて力強く向かってくるのに対し、ヘクトールの馬の表情は恐れ慄き、敵から顔をそむけて前脚を上げ、今にも逃げ出さんとしている。ヘクトールの敗北と死、それによってもたらされるトロイアの陥落と父プリアモス王一族滅亡の運命が、2頭の馬の対照的な様子に表れているのである。

実はこの作品のサイズは、縦2.8センチ×8.4センチしかない。16世紀前半のドイツでは、葉書ほどの大きさから切手大まで、小型で緻密な版画を制作する作家が現れ、大変な人気を博した。本作品の作者であるニュルンベルク出身の版画家、ハンス・ゼーバルト・ベーハムもその代表的な作家の1人である。小さな紙面に、物語のクライマックスである両英雄の一騎討ちの場面がエングレーヴィングの技法で緻密に描かれている。

こちらの作品は、ミュージアム・コモンズの新春展2026「馬の跳ねる空き地」展(1月8日[木]~2月7日[土])に出品されている。小さな画面に広がる壮大な物語を覗きに、新春の散策の足をのばしていただければ幸甚である。

(慶應義塾ミュージアム・コモンズ学芸員 大前美由希)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事