【その他】
宮代 康丈:文明という天狼星(シリウス)
2025/12/24
おととしフランスで出版された『世界哲学史』には、「日本哲学」という章がある。さてどのようなことが書かれているかと本を開いてみると、明治初期の「最大の知性」として「慶應大学の創立者」福澤諭吉が登場し、政治システムやリベラルな精神、科学の徹底という点で西洋文明を高く評価した人物だと紹介されている。この紹介を読んで首をかしげる人はいないだろう。日本を「西洋流の文明富強国」にしたいという思いで「慶應義塾を西洋文明の案内者」にしたと語っているのは、ほかでもない福澤自身だからである(『福翁自伝』)。『文明論之概略』のページをめくっても、読者の心に残るのは、「断じて西洋の文明を取るべきなり」、「文明に非ざれば独立は保つべからず」などの力強いメッセージではないだろうか。加えて、相対的なものの見方や、状況を見渡すある種のリアリズムもまた印象深い。これらの点から見れば、福澤は、時勢を見据えて西洋文明を理想とし、日本の近代化やネーションとしての独立を鼓舞した思想家ということになるだろう。
もっとも、刊行150周年を機に『文明論之概略』を読み返して、私が新たに心を惹かれたのは、そのような面ではない。今日なお新鮮に感じられるのは、むしろ時勢や相対的なものを超える視点を福澤が持ち合わせていたことであるように思う。この視点がなければ、「文明には限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足すべきに非ざるなり」という考えが思い浮かぶはずもない。西洋文明と日本文明のどちらにも尽きない文明というもの、つまりは文明の理念を福澤は抱いていたわけである。
文明とは何か。なんとも壮大な問いであるけれども、「文明の本旨」を論じる第3章では、「人の智徳の進歩」が文明であると説明されている。19世紀の歴史家であるギゾーやバックルの議論を下敷きにしたものだが、この定義は実のところ西洋文明を指すにすぎないのだろうか。もし仮にそうなのであれば、『文明論之概略』の歴史上の役割は終わったと言ってよいだろう。「今世界中の諸国に於て〔…〕、苟(いやしく)も一国文明の進歩を謀るものは欧羅巴(ヨーロッパ)の文明を目的として議論の本位を定め、この本位に拠て事物の利害得失を談ぜざるべからず」。ところが、150年前の「今」は、我々が生きている今ではない。西洋に追いつくことが今も日本の喫緊の課題であるのかは定かでないだろう。また、福澤の生きた時代には、文明化の使命という大義名分を掲げて植民地化の蛮行を働いた国も西洋にはあった。そのような蛮行は、まさしく文明の名に反すると言い返した政治家も同国にはいたけれども、植民地主義の歴史を知る者にとって、文明という言葉を無頓着に受け入れるのはなかなか難しいはずである。
しかしながら、福澤にとって、「文明の本旨」は日本の西洋化に尽きるものではない。「この議論は今の世界の有様を察して、今の日本のためを謀り、今の日本の急に応じて説き出したるものなれば、固(もと)より永遠微妙の奥蘊(おううん)に非ず。学者遽(にわか)に之を見て文明の本旨を誤解し、之を軽蔑視してその字義の面目を辱しむる勿れ」。時勢の議論に溺れて「永遠微妙の奥蘊」や「文明の本旨」を見誤ってはならないというのである。それに、文明というものは、人としての理想像というか、使命を指してもいるようだ。「文明は人間の約束なれば、之を達すること固より人間の目的なり」。「文明の太平」という「夢中の想像」も『文明論之概略』では描かれ、「文明の極度」に至れば、どんな政府も無用の長物になるはずだとさえ福澤は言い切っている。
もちろん、そのような理想郷が訪れるのを座して待っていればよいわけではない。何よりも注目したいのは、現実を超えた理念に照らして、当の現実を批判し先導する福澤の態度である。時局に目を向けることは、多勢に無勢で、風見鶏よろしく方針を変える小器用さとは違う。現在のものごとを相対化し、現実を批判的に捉える姿勢は、『文明論之概略』以降にも見られる。晩年の『福翁百話』では、「文明の円満は百千万年の後を期して今日に見るべからず」と語られている。宇宙という大海に浮かぶ芥子の一粒に地球を例え、人間をその芥子粒の上に生まれては死んでいく「蛆虫」のようなものと一旦は捉えてみせるのも、福澤の遠望する眼差しのなせる業だろう。
ここで私が思い出すのは、天狼星(シリウス)の視点から見るというフランス語の言い回しである。この表現は、高みに身を置いて眺める大局的な見方や、偏りのない客観的な見方を意味する。福澤の文明観の一端は、この天狼星からの眺望になぞらえてもよいのではないか。もっとも、移ろいゆく時勢と距離を取ることが、高みの見物に終わるとは限らない。それどころか、文明という高所に立つことを忘れなかったからこそ、福澤は時勢を踏まえて果敢な判断を下せたのだろう。『文明論之概略』に改めて学ぶべきものは今、この姿勢であるように私は思う。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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宮代 康丈(みやしろ やすたけ)