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根井 雅弘:文明への漸進主義
2025/12/24
私の専門は西欧の経済思想史なので、ふだん日本政治思想史や日本経済思想史の分野の偉人たちを授業で教えることはない。だが、2025年が『文明論之概略』の出版150年になることは偶然知っていた。
もちろん、私は一介の経済思想史家に過ぎないので、福澤諭吉の思想の多面的な評価については碩学に委ねたい。ただ、私のようにケインズやシュンペーターなどの西欧の経済学の古典を読み、その分野でものを書いてきた者にとっても、『文明論之概略』は非常に啓発的であり、そのことを書いていきたい。
私が学生の頃は、日本経済思想史は今ほど人気のある科目ではなく、その分野の研究者も多くはなかった。だが、福澤の経済思想には関心があったので、碩学による評価をひもといてみたところ、ある本に「重商主義的貿易立国論」だと書かれてあった(杉原四郎『明治啓蒙期の経済思想 福沢諭吉を中心に』法政大学出版局、1986年)。明治期の「殖産興業」のために必要なある種の保護主義を採用し、ひいては「独立自尊」を成し遂げるという筋書きはわかりやすくはあるが、すでにケインズを勉強していた私には、福澤のように複眼的な目をもった思想家に1つのレッテルを貼るのは多分に誤解を招くのではないかという不安を抱いた。なんとなれば、ケインズも、不況脱出のための「(赤字)財政主義」というレッテルを貼られて、彼が優れた貨幣理論家であったことが今日でも正確に理解されていないからである。
『文明論之概略』が刊行された1875年には、経済学界に「限界革命」(ふつうは消費量を1単位増やしたときの効用の増分を意味する「限界効用」の発見に始まると説明される)と呼ばれる新しい動きが生じていたが(例えば、ジェヴォンズの『経済学の理論』の刊行は1871年)、限界革命はケインズ革命のように一気に学界の勢力図を塗り替えたというよりは四半世紀以上も長いあいだ徐々に進行した理論的革新であった。その上、ヨーロッパ大陸から歴史学派やコントの総合社会学などの思想が流れ込み、学界は混迷を深めていた。だが、アダム・スミスに始まる古典派経済学がただちに消え去ったわけでは決してない。1875年はまだ最後の古典派の大物、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』(初版は1848年だが、第7版が1871年に出ている)が十分に教科書として通用していたと言ってよい。
福澤と経済学というと、しばしば、福澤が新政府軍と彰義隊との上野戦争にも動ぜず、フランシス・ウェーランドの経済書を講じていたという逸話が持ち出されるのだが、それは史実ではあっても、福澤が古典派経済学をどのように評価していたのかが伝わってこない。
ところが、『文明論之概略』を読むと、福澤が経済の二大原則(巻之5第9章)を挙げており、それがスミス以来の古典派経済学と驚くほど符合していることに気づく。
すなわち、第1は、「財を積(つみ)て又散ずることなり。而(しこう)してこの積むと散ずるとの両様の関係は、最も近密にして決して相離るべきものに非ず」とあり、「経済家の目的は、常にこの所得をして所損より多からしめ、次第に蓄積し又費散して全国の富有を致さんとするに在るなり」という。これはスミスが『国富論』第4編で、年々の生産物の交換価値が年々の消費よりも大となることを強調しているのと類似している。
第2は、「財を蓄積し又これを費散するには、その財に相応すべき智力とその事を処するの習慣なかるべからず」とある。経済の「智力」と相応の「習慣」が欠けているのは、封建時代の日本が士族以上の治者と農工商以下の被治者に分断され、権力が前者に集中していたからだ。福澤は将来の日本は「中間層」が文明をリードしていくべきだと考えていたが、残念ながら、幕末から明治期には、スミスが生まれたイギリスにあった市民社会やその社会に生きるふつうの人間が従うべきルール(これが「モラル・フィロソフィー」の基本である)も根づいていなかった。「モラル」は当時翻訳しようがなかったので「修身」と訳されていたが、本来は、市民社会の誕生と結びついた言葉である。ケインズもまた経済学を「モラル・サイエンス」のひとつであると言っていた。
だが、現状から一足飛びに「文明」には到達できないので、福澤は「漸進主義」を採り、彼が折々に書いた時事論説にもその立場が濃厚に反映している。いずれにせよ、福澤はスミスに始まる古典派の伝統がしっかり根づいているイギリス、そしてかの国で活躍していたミルの政治経済思想から大いに学んだはずである。ミルの思想こそ、改革の積み重ねで資本主義を進化せるという意味での漸進主義だからだ。それはマーシャルを経てケインズにまで継承されていくが、ミルを何度も引いた福澤もまたそのような姿勢から示唆を得たに違いないと私は思っている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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根井 雅弘(ねい まさひろ)