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小室 正紀:衝撃の一文
2025/12/24
慶應義塾に居たからこそ、なんだか福澤諭吉を避けていた。「教祖様」は敬して遠ざけていたいという気持ちだったかもしれない。そんな訳で、福澤諭吉の著作を、腰を据えて読み始めたのは、1980年代の末で、40歳近くになってからであった。
そのころ丸山真男さんの『「文明論之概略」を読む』(以下『読む』)が出版され、私の周りでも大変に高く評価されていた。ある時、この書について先輩の坂井達朗さん(後に福澤研究センター所長)が、雑談の中で、〈あれはいいけども、丸山さんの読みでね、最初にあれを読んじゃうとね〉という感想を話していらっしゃった。
実は、その時はまだ『読む』も『文明論之概略』(以下『概略』)も読んではいなかったが、内心なるほどそういうものかと思い、それからしばらくして旧版の岩波文庫で『概略』を読み始めた。
それまで江戸時代の資料を読んでいたので、それに比べれば文章は遥かに分かりやすく、しかも巻頭から論旨はクリヤーであり、ズイズイと引き込まれた。そして、第1章の末段近くまで読み進めた時、そこに「試(こころみ)に見よ、古来文明の進歩、其初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」という一文を見て、頭がクラクラするような衝撃を受けた。天保生まれの思想家がこんなにラディカルなことを印象深い一文に集約して表現するのかという衝撃であった。
その後も何度となく機会あるごとに『概略』を読み返した。ゼミの学生諸君と夏の合宿で読んだこともあった。しかし、何度読んでも「試に見よ、古来文明の進歩」云々の一文は、『概略』を象徴する一文だという思いに変わりはない。
「異端妄説」が起るには、様々な説が生まれ活発に議論が行われる「多事争論」の社会でなければならない。また、その議論が科学的な知性に裏付けられていることも重要だ。『概略』はそのような社会を日本に実現させるための著作なのである。全巻の目指す所は「異端妄説」を生み出すことだと極論してもよい。
この『概略』を福澤の思想遍歴の中にどのように位置付けるか。多くの研究者は、『概略』からいかに福澤の思想が変わって行ったかを分析している。しかし筆者は、福澤の文明観とそのラディカリズムは生涯変わっていないと考えている。
福澤は物事の本質を思索する思想家であると同時に、目の前にある人民の豊かさと自国の独立のために記事を書くジャーナリストでもあった。そのため著作には、その時その時の時事問題に関して現実主義的な道を示すものが多い。しかし、その現実主義に彩られた衣の下には、『概略』以来のラディカリズムという鎧が生涯にわたって垣間見える。
このように考えると「試に見よ、古来文明の進歩」云々は、福澤の生涯の思想を象徴する一文に思える。
2008年の慶應義塾創立150年を記念して、その翌年に福澤諭吉に関する展覧会を開くことになった。その準備を始めるに当たって鷲見洋一さん、前田富士男さんと、展覧会のコンセプトを象徴する言葉を考えることになった。迷わず「試に見よ、古来文明の進歩」云々の一文を話に出した。それは、先に述べたような思いがあったからである。そこからセンスの良いお2人との間で話は展開し、「異端と先導」という簡潔な言葉にコンセプトが集約された。また、展覧会図録の冒頭では時の安西祐一郎塾長が、「試に見よ、古来文明の進歩」云々をリード文に掲げて巻頭言を書かれ、この展覧会のコンセプトを明確に示された。
ところで、『概略』を最初に読んでから間もなくして丸山さんの『読む』も熟読した。福澤が参考としたギゾーやバックルの原書を読まれているのは勿論のこと、洋の東西にわたる丸山さんの凄まじい教養を武器に、福澤の考え方を分析して行く見事さに圧倒された。
それ以来『読む』は愛読書の1つである。ただ、考えてみると、それは丸山思想史への惚れ込みであり、読後に意外と『概略』についての印象は残らない。この点では、やはり無手勝流でも、最初に『概略』そのものを読んだことは幸せであった。そうでなければ、あの一文を最初に目にした時の衝撃は無かったと思う。
その後、いろいろな事情もあり、福澤の著書は勿論のこと、書簡や『福澤諭吉全集』に収録されていない『時事新報』の社説なども読むようになった。時に嫌味な所を感じることもあるが、読めば読むほど福澤に強く惹かれてゆく。このままでは「福澤教」の信者になってしまうのではないかと思うことさえある。そんな時、繰り返し「惑溺」を批判している『概略』の主張が思い浮かぶ。どんな慣習や思想や学説であっても、それに無批判に溺れてはいけないということだ。『概略』は私にとって福澤惚れの入り口であったと同時に、「福澤教」に溺れることを押しとどめてくれている一書のような気がしている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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小室 正紀(こむろ まさみち)