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【From Keio Museums】珍品! 慶應義塾の角帽と中等部霜降詰襟
2025/12/12
慶應義塾の制服の"異形"と呼ぶべきもの、それが今回の「角帽」、「霜降(しもふり)」かつ「中等部の詰襟」である。この2つは、別々にオークションサイトを通じて入手された。
現在の慶應義塾では、制帽を被った塾生を見かける機会がほぼなくなり、強いていえば野球部マネージャーや應援指導部旗手などの着用を球場で見る程度である。しかもその形は「塾帽」と通称される丸い帽子で、角帽ではない。詰襟の制服姿は、普通部・慶應高校、そして体育会所属の大学生の服装として日常的に見られる。しかしそれらは黒一色であり、紺と白の糸を撚(よ)った杢糸(もくいと)を用いた霜降と呼ばれる素材には今日ではお目にかかれない。そして今日の中等部に、詰襟の制服はないのだ(中等部の現ブレザーは基準服)。慶應義塾の制服の歴史をごく荒っぽく紹介すると、明治17年頃、一部塾生がそろいの洋服を着用し始め、明治33年には普通部生に詰襟と制帽(丸帽)の着用、大学部生(予科・本科)には洋服の着用の指針が示された。さらに38年には大学部予科生も詰襟、本科生は角帽を被るとされた。とはいうものの、写真を見る限り実態は伴わず、形式主義を嫌う塾では、統一を強く図らなかった。日本の一般的な学生文化としては、最高学府たる大学(本科)のみ学問の権威を示す角帽を被れる、という意識が浸透し角帽は憧れの対象だった。ところが慶應義塾である。塾生は仰々しい角帽を軽蔑して、中折帽などに所定のペンマークを付けて被り、昭和になると日本全体で規律がうるさくなると、下級生の丸帽を大学本科でも被るようになった。そして塾当局は昭和15年にそれを制服として正式に明文で追認した。つまり今回出現した角帽は、塾生が黙殺して定着しなかった明治末期か大正初期の遺物なのである。そして詰襟は、現在は黒一色だが、かつてはこれも統一されておらず、夏服として特に普通部や商工学校の塾生が霜降を着ていたらしい。今回出現した霜降詰襟は、戦後の中等部でもそれが着用されていたことを教えてくれ、ボタンの「中」の字がついたペンマークも新鮮だ。制服一つとっても、慶應義塾は一筋縄ではいかない。(塾史展示館の「新収資料展2026」(2026年1月10日〜2月7日)展示予定。)
(慶應義塾福澤研究センター教授 都倉武之/同センター調査員 酒井俊輔)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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