【その他】
【From Keio Museums】昭和20年、特攻死した上原良司の父の手帳
2025/07/10


昭和20年の小型の手帳がある。その持ち主は上原寅太郎。現在慶應義塾史展示館で開催中の「ある一家の近代と戦争 上原良春・龍男・良司とその家族」(8月30日まで)で取り上げた慶應義塾出身で戦没した3兄弟の父である。
この一家には尋常ならざる密度で、昭和初期の日常の品々が残っている。定期券、学生証、受験票といった、ちょっとしたものが何でも残る。しかも大変筆まめだ。慶應義塾に学ぶために東京にいる子供たちと長野県安曇野の実家の両親との間で交わされた手紙だけで数百通は下らない。日記、学校のノート、ついには受験勉強中の計算用紙まで残っている。
なぜ残されたか──3人の子供たちを戦争で失った両親の心は想像するしかない。
この一家の資料の密度が異常に高いことが、かえってその空白を浮かび上がらせる。父寅太郎は大正時代からびっしり書かれた日記が残っているにもかかわらず、戦争末期の日記が欠けている。すでに昭和18年に海軍軍医となった次男龍男が潜水艦の沈没で戦死していた。陸軍パイロットになった三男良司が、特攻出撃前に最後に実家を訪れるのは昭和20年4月上旬だが、父の手帳には何の記載もない。5月21日、良司の荷物が「調布ノ原隊」から「将校行李」に詰められて届く。そして同25日、良司の「遺品来ル」。良司が5月11日、知覧基地から特攻出撃した際残された荷物であった。この郵送品の包み紙も現存している。この年の手帳はこの日を最後に以後、白紙だ。あれほど日々の痕跡が濃密に残る一家から文字が消える。
戦争が終わり、昭和21年から再び残っている寅太郎の日記は、元旦の「拝賀ニ行カズ。良春ノ無事ヲ祈ル」から始まる。ビルマにいる長男良春からの音信はしばらく絶えていたが、続々と届く南方からの復員者の報道が一家の希望であった。しかし7月16日、良春が前年9月に戦病死していた報が届く。「誠ニ青天ノ霹靂」「運命ノ神ノ悪戯ヲ呪フノミ」。この一家の、日々表現する習慣が、戦没した3兄弟の残酷な歴史を静かに80年後に伝えている。
(慶應義塾福澤研究センター教授 都倉武之)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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