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【From Keio Museums】上條俊介作 上原良春・上原龍男・上原良司 肖像

2025/05/14

1949年 上原幸一氏蔵
安要野からのぞむ北アルブスの眺め 石戸晋撮影

『きけわだつみのこえ』の巻頭を飾る遺書を残した特攻隊員として知られているのが上原良司である。「自由主義者」を自称し、日本の敗戦さえ予見する強烈な文言が並ぶその出撃前夜の言葉は、戦没学徒の代表的遺書として広く知られている。彼は旧制松本中学を経て日吉の慶應義塾大学予科に入学、三田の経済学部1年に進学した直後に学徒出陣で陸軍に入隊した現役の塾生であった。右の像は、その良司の軍服姿を象り、胸には死後に贈られた金鵄勲章がみえる。

では他の2人は誰か。中央は良司の長兄良春、左は次兄龍男である。良春は昭和15年3月慶應医学部卒で陸軍軍医となり、龍男は昭和17年9月、やはり慶應医学部卒で海軍軍医となった。そしてこの兄たちも戦争で命を落とした。上原家は両親と2人の妹を残して、3人の慶應義塾出身の息子たちを戦争で失ったのだ。

最初に命を落としたのは龍男で、昭和18年9月3日(戦死認定10月22日)、軍医として乗艦した伊号第182潜水艦がニューヘブリディーズ諸島海域で撃沈された。次いで昭和20年5月11日、良司が鹿児島県知覧から陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として沖縄方面に向け出撃した。そして戦争は終わった。2人を失った一家は、しかし大黒柱の長男の復員を心待ちにした。

年が明けた春、念願の長男復員の知らせを聞き、父寅太郎は労いのビールを用意して待った。しかしそれは人違いであった。代わりに戦友がもたらしたのは、昭和20年9月24日にビルマで良春が戦病死した知らせであった。

元陸軍軍医で長野県有明村(現安曇野市)に医院を開業していた父は、気丈に振る舞ったが、彫刻家の上條俊介に、息子たちの胸像を依頼し、生涯仏壇の上に飾っていた。さらには息子たちの生前の手紙、ノートはじめあらゆる遺品に手を付けず、そのまま残し続けた。慶應義塾史展示館春季企画展「ある一家の近代と戦争──上原良春・龍男・良司とその家族」(会期:2025年6月19日~8月30日)は、その慶應出身の3兄弟と家族の残した膨大なモノたちを通して、日本の近代がもたらした1つの帰結を問う試みである。

(慶應義塾福澤研究センター教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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