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【From Keio Museums】若き小泉信三、水上瀧太郎の書簡 梶原可吉宛

2025/03/14

梶原可吉宛小泉三書簡(大正8年3月19日)

梶原可吉宛阿部章蔵(水上瀧太郎)書簡(明治45年1月8日)
大学部政治科卒業写真(明治43年)

所蔵:慶應義塾福澤研究センター(佐藤健二氏寄贈)

精悍な若者たちと手前に教師たちが並ぶ1枚の写真。大学部政治科の明治43年の卒業生17名の集合写真である。場所は、現在では三田演説館が移築されている三田キャンパスの南西側の小高い丘、通称稲荷山で、背後には木造の校舎が建ち並んでいる。最前列は右から田中一貞、福田徳三、堀江帰一、林毅陸、そして田中萃一郎の錚々たる教師たちである。立襟の背広姿の林の真後ろに写る青年が、後の塾長小泉信三だ。この年22歳。後列右から2人目で腕組みをしているのが小泉の親友梶原可吉(かじわらかきち)である。この2人の大親友に阿部章蔵、のちの小説家の水上瀧太郎がいる。彼は小泉の1年上で、あらゆることに長けた青年であったが、成績のための勉強だけは怠り、2年後に理財科を卒業した。小泉の家は、稲荷山の石段を下りてすぐのところにあり、その家をはじめ、親友達は家を訪問しあい、あるいはお茶を啜りながら、あるいは酒を手に、闊達に語り合った。その輪には美術史家となる澤木四方吉や、作家の久保田万太郎なども加わった。今回寄贈のあった梶原可吉宛小泉・水上書簡はその談話が聞こえてくるような一群の書簡で、実に100通近くに上る。

彼らの初期の話題の中心は、永井荷風を招聘して創刊間もない『三田文学』を中心とした文芸談である。瀧太郎は、ある時は永井の戯曲を「失敗の作」と書き、また劇作家で文学科教師の小山内薫が「永井さんは真面目なんですか?」と語ったと記す。そして小山内に聞いた高校時代の失恋談を書くといった具合に何の遠慮も無い。小泉は、ある時は、妻と家業を捨てて新橋の人気芸者ぽん太を後妻とした鹿島清兵衛を「後藤新平や新渡戸稲造より遙かにエライ」と書く。

神戸に戻った梶原に活き活きと近況を書き送る交流は生涯続き、写真に掲げた小泉書簡では大正8年、日本への普通選挙導入に対して梶原が反対論を書き送ったのに対して、小泉は「僕はあきれた」「慶應義塾で正当な教育を受けた小泉信三はそんな臆病な了見は持てゐない」と熱く書き送る。

決して達筆とは言えない2人の字からは、しかし100年を経てなお、慶應義塾の自由の気風が瑞々しく迸り出る。

これらは新収資料展2025で展示された。主要な新出の瀧太郎書簡は『三田文学』160、161号(2025年冬季号、春季号)に掲載される。

(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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