【その他】
「藤山一郎がゆく!─『若き血』から国民栄誉賞まで─」を観て
2025/01/09

藤山一郎がやってきた! 企画展示室に入ると、中央の展示ケースで金色のアコーディオンがピカピカ光っている。その傍に、藤山がアコーディオンを構え、にこやかに立っている写真がある。明るく澄んだ歌声を連想する。アコーディオンの後ろにトランペットがある。東京音楽学校の制服姿で、神宮球場の応援席に立ちトランペットを吹く増永丈夫(藤山の本名)の姿を捉えた写真がある。昭和7年の慶早戦だという。音楽学校本科3年生の増永が応援に駆けつけたのだ。吹いているのは《若き血》だろうか。
三田キャンパスの福澤諭吉記念慶應義塾史展示館での企画展(2024年10月17日~12月14日)は、「1、『藤山一郎』の誕生」「2、戦争の時代をゆく」「3、音楽の力を信じて」「4、慶應義塾と共に」で構成され、モニターでは33分に編集された藤山の歌唱映像が終日流れている。観て、読んで、聴いて、時代の空気にふれ、五感、六感をとらえる企画展示室は、藤山が自ら展示の案内に現れてもおかしくない雰囲気であった。
藤山の幼少期の家族写真、幼稚舎時代の作文、東京音楽学校受験時の普通部成績証明書、音楽学校の演奏会のため練習に使用した楽譜、演奏会写真、《ラジオ体操の歌》などの作・編曲の自筆譜、数々のレコード、藤山一郎楽団のタペストリー、大学應援指導部から贈られたペナント、愛用のジャケット、国民栄誉賞記念盾などが一堂に会した。《躍る太陽》《三色旗の下に》の作曲や慶早戦前夜の「慶應ラリー」のアルバム、岡本太郎とのツーショットなど、藤山と慶應義塾との絆の強さが窺える。
そうしたなか「戦争の時代をゆく」のコーナーはひときわ存在感があった。藤山は昭和18年2月より海軍の南方慰問団に軍属として参加し7月に帰国、11月に再び少佐待遇の海軍嘱託として南方の島々の兵士を激励し、住民の宣撫工作にも関わり、1年近い抑留生活でも各地の収容所で演奏した。藤山が音楽とともに各地を巡った足跡が3枚のパネル「南方慰問の足跡」にまとめられている。これにより、藤山の慰問演奏や現地の学校で音楽を教える写真が当時の脈絡の中で見えてくる。藤山の南方での足取りがここまで可視化されたのは初めてではなかろうか。
帰還後の巣鴨プリズンでの独唱会、「感謝 熱烈慰問演奏」という荒木貞夫元陸相等10名の墨書による礼状もある。長崎で被爆した永井隆博士との邂逅を経て、藤山は第1回紅白歌合戦で《長崎の鐘》を歌った。博士から贈られた書簡とロザリオもある。藤山の音楽人生は戦争体験ぬきには語れないことがわかる。常設展示室に昭和21年8月5日発行の『歌謡春秋』が展示されている。その表紙を飾るのは「突如として南方から帰還したわれ等のピンちやん藤山一郎の嬉しくも懐かしい面影」(同誌36頁編集後記)である。藤山の「帰還の辞」も掲載された。国立国会図書館所蔵の同誌はプランゲ文庫としてGHQの検閲メモ付きで保存されている。
展示資料の多くが(一財)藤山一郎音楽文化振興財団所蔵である。藤山の御息女市川たい子氏(塾員)、御令孫市川卓広氏(塾員)のご協力あって成立した企画展であった。またトランペットや《酒は涙か溜息か》の藤山の自筆譜などNHK放送博物館に寄贈された資料も出展された。
企画趣旨は、藤山が生涯にわたり慶應義塾を彩る音楽に携わったこと、専門的な歌唱を習得したうえで非クラシック界に身を投じて音楽文化の発展に寄与し「真摯で強靭な反骨精神で多面的な航跡を残す藤山一郎の再評価」を試みることを掲げていた。再評価に一歩近づいたここからが出発である。
企画展は実際のところ、何をどこまで伝えたのだろうか。今回の展示では藤山の生涯の重要なシーンが網羅されていたが、音楽家の核心である音楽については何が伝わったのだろうか。作・編曲の譜面、レコードジャケット、記念品など可視的な資料は彼の活動を伝えるには有効だが、不可視の音楽を伝えるには限界もある。
では藤山一郎を伝えるとは何か。会場で《長崎の鐘》を繰り返し聴いて気づいたことがある。詩句は短調で「語られ」、長調のリフレインで「歌われる」。例えば2番の「召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ 形見に残るロザリオの 鎖に白きわが涙」は短調で語られ、リフレインの「なぐさめはげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」は3番まで詩句は共通である。
語りの詩句が被爆の事実や痛みを説明的に伝えるのに対し、リフレインは、痛みや苦しみから解放された天の国に捧げる平安の祈りである。藤山はリフレインをどのように歌っているであろうか。「なぐさめはげまし」以下は声楽家ならば朗々と美声を聞かせたくなるところであるが、藤山はそれを封印し、固い表情を崩さず鎮魂歌を捧げる。むろん藤山一郎の歌唱が唯一最高ということではない。歌い手ごとの声・解釈・表現があろうが、永井博士と直接会った藤山の歌唱を繰り返し聴き、その真意を味わうことが、藤山にも永井博士にも会えない今こそ必要ではないだろうか。
筆者は藤山の東京音楽学校時代の資料のことで参加の機会をいただいた。その結果、自分は藤山についてごく僅かしか知らなかったと痛感した。福澤研究センターの都倉武之准教授のお誘いで慶早戦を応援した。藤山がトランペットを吹き、《若き血》を熱唱したと思しき場所に立つと、慶應の3塁側から早稲田の1塁側は意外に近く、これなら増永の声が敵陣を脅かしそうだと想像することができた。
藤山は「音楽を創るもの、それは結局聴衆なのである」という(『歌い続けて』音楽鑑賞教育振興会、昭和60年、113頁)。音楽は最終的に聴く人において完成するのだと。ならば、展示も最終的に観た人において完成するのだろう。藤山一郎は今も人々の中に生きている。だが藤山の実像が知られているとは必ずしも言えない。企画展は藤山が21世紀に生き続ける意味とそのための課題を示唆した。企画展のコーナーごとに掘り下げることもできよう。彼の歌唱に親しむ常設的な場や定期的な機会を望みたい。藤山一郎には21世紀も引き続き活躍していただかねばなるまい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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