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【From Keio Museums】藤山一郎のトランペット

2024/11/07

(所蔵:NHK放送博物館)
神宮球場にて(所蔵:一般財団法人藤山一郎音楽文化振興財団)

1932(昭和7)年秋の早慶戦で撮影された1枚の写真。トランペットを吹いているのは、増永丈夫、歌手の藤山一郎である。彼はピアノはもちろん、アコーディオン、バイオリン、フルート、そしてあらゆる打楽器の演奏ができた。

丈夫は幼少より西洋音楽に親しみ、1918(大正7)年に慶應義塾幼稚舎に入って唱歌教師江沢清太郎と出会う。そして授業だけでなく、課外でピアノや歌唱を学んだ。4年生で初めてレコード吹き込みの機会ももらった。大震災で丈夫の自宅のピアノが焼失すると、バイオリンやトランペットなどの楽器を始めるよう江沢は勧めた。丈夫は歌をやめろと言われたと思いショックを受けたが、変声期に喉を酷使しないための江沢の配慮とわかった。その時求めたトランペットがこれである。

普通部に進むと、音楽教師弘田龍太郎がいた。彼はピアノの名手で、「雀の学校」「春よ来い」などの童謡の作曲でも知られる。丈夫は普通部のラグビー部でも活躍しながら、弘田が助教授を務めていた東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)の分教場に通ってピアノを習った。それだけでなく、時に同じ分教場にいたハイバリトン歌手でもある梁田貞に声楽を、バイオリンを慶應のワグネル・ソサィエティ・オーケストラの初代指揮者でもある大塚淳に教えてもらった。また、弘田の師で、「十五夜お月さん」などの作曲で知られる本居長世の自宅にも出入りするようになる。

1929(昭和4)年、丈夫はすでに出入りしていた東京音楽学校に進学する。しかし義塾との縁は切れない。若き日の丈夫の喉を護り、肺活量も増やすことを助けたこのトランペットは、東京音楽学校生になってからも、丈夫が神宮で慶應野球部の応援に加勢するときに活躍した。もちろん歌唱でも大いに活躍し、余りの声量で、早稲田側応援席から「増永を出すな」と苦情が来たとも伝えられる。

求めれば様々な可能性の扉が開かれるのが、慶應義塾の一貫教育の面白さであり、その意味で丈夫は慶應義塾の申し子といえるかもしれない。歌手藤山一郎の生涯を振り返ることは、慶應義塾の教育を考えることでもある。(慶應義塾史展示館秋季企画展「藤山一郎がゆく!──「若き血」から国民栄誉賞まで」は、12月14日まで開催

(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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